錦風流尺八と岡本竹外先生の思い出
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錦風流尺八と岡本竹外先生の思い出(2015.3.26)

虚無僧研究会の小菅会長から、虚無研会報に掲載する記事の依頼があり、岡本竹外先生の思い出を書き上げました。

錦風流尺八と岡本竹外先生の思い出 

 私が岡本竹外先生に入門してから三十七年の歳月が過ぎました。その間に、岡本竹外先生に学んだ弟子の方々も、御多分に洩れず、高齢化になり、岡本先生が設立されました、明暗蒼龍会の総会や研修会に出席できない方が増えてきました。そのため会員の皆さんに、蒼龍会の活動状況を記事にまとめて、それを送付することにしました。この記事のタイトルは「蒼龍会通信」と題して、今年一月に創刊号を作成しました。その中に、昔の思い出の写真として、昭和五十八年一月二十二日に横浜市中区にありました神奈川県自治会館の会議室を借りて、蒼龍会の第一回目の総会を開催しました。出席者は十七名でした。その時の記念写真を見ると、すでに五名の方が、亡くなっています。それ以降に開催しました総会や研修会では、虚無僧研究会の小菅会長はじめ、虚無僧研究会の重鎮の方々も客員として出席されるようになり、出席者も三十名くらいになり、研修会場を探すのが私の役目でしたが、大変な思いをした記憶があります。また、研修資料などは岡本先生が準備されました。その研修会を振り返れば、岡本先生の禅に関する話が多くて、出席された方々も、その内容を理解するのに四苦八苦でした。研修会も終わり、懇親会となれば、みなさん酒も入り、大変な盛り上がりでした。それから時が過ぎ、客員で出席された先生方も、次々と亡くなり、平成十二年二月の総会の二か月後、四月には岡本竹外先生も亡くなりました。この年、六月の臨時総会で、明暗蒼龍会の二代目会長に高弟の高橋峰外氏が就任されました。岡本竹外先生存命の頃の総会、研修会は、どことなく皆さん緊張感がありましたが、二代目の高橋峰外会長になり、飛び入り参加の方も大いに歓迎され、会も和やかな雰囲気で今日まで活動してきました。今年は二月七日に横浜のホテルで蒼龍会総会が開催されました。高橋峰外会長から、十五年間務めた会長を退任し顧問に就任することを、会員の皆さんに告げられました。また、明暗蒼龍会三代目会長に、私を推薦していただき、会員皆さんの同意をいただき、私が、これから重責を担うことになりました。今年、六月末に予定されています明暗蒼龍会夏季研修会が、私の会長としての初仕事です。岡本先生が亡くなった後、ここ数年は研修会の講師を私が担当してきました。今年の夏季研修会も私と副会長の相藤さんが、研修会の講師を担当することになっています。すでに研修会のタイトルも「錦風流尺八と弘前の旅のまとめ」と題して、資料の準備に入っていましたが、旅先の北海道、札幌滞在中に、小菅会長から電話で、虚無研会報の原稿依頼がありましたので、移動時間中に書き上げたものです。岡本竹外先生は、錦風流尺八は、錦風流尺八・三代宗家、成田松影(清衛)師から、学ばれ、昭和二十七年に師範試験に合格して、師範免状をいただいていましたが、稽古の時に何度も口にされたことは、自分が一番苦手にしていた流し鈴慕の曲、成田先生は、そのことを見抜いていて、試験の時に、あなたは流し鈴慕を吹きなさいと言われたとのこと。それでも無事に吹くことができて、合格し、免状はもらったたが、それから二年くらいして成田先生から、やっとあなたも錦風流らしくなったなと言われたそうです。岡本先生も亡くなるまで、錦風流尺八の発祥の地、弘前には一度も出かけられたことがありませんでした。稽古の時の、岡本先生の話の中で、明暗の尺八で、錦風流を吹いても、竹の作りが違うので、むしろ琴古流尺八の方がいいと聞いた記憶があります。その当時、私には何が違うのかよく理解できませんでした。岡本先生が亡くなった九年後に、私は錦風流尺八の歴史調査の旅に、弘前に出かけました。その中で、地元の錦風流尺八家が、これまで使用していました、数々の錦風流尺八を見ることができました。特に、錦風流尺八、津軽三名人の一人、青森市内で活躍され、たくさんの弟子を育てました津島孤松師の使用した尺八はすべて、弘前にいました津軽三名人の一人、折登如月(清風)師が製管されたものでした。弘前在住の折登如月師は、青森県には尺八になる真竹はないので、当然、関東や東北の方から材料を仕入れて製管していたのでしょうが、現在、残されている数々の尺八、堅い竹材で、すばらしいものばかりです。弘前訪問で、初めて折登如月作の尺八に息を入れた時に、岡本先生から聞いていた琴古流尺八の話とは、まったく別で、地無し管の息受けの良さと、音味の素晴らしさは、さすがと思われるものばかりでした。以前、仙台市在住の故・郡川直樹さんから、津島孤松師が太い尺八を吹いている写真を見て、えらくメリ吹きをしているように見えるが、本当に名人だったのか、こう話しかけられたことがあります。琴古流、都山流の尺八家から見れば、管尻を上げて吹く姿は、メリ吹きに見えますが、平成二十一年七月、弘前二度目の訪問の時に、錦風流尺八の資料をいただきました、地元、弘前で都山流大師範として有名でした故・境道山先生が、折登如月作の地無し管を手にされ、都山流尺八の要領で、歌口を吹かれましたが、むなしく風きり音が出るだけでした。如月管のように太い竹の歌口を現代管のように強く吹いても、半分は風きり音になるだけです。やはり、丹田の力を利用して、管尻を持ち上げて、尺八内部に圧力をかけないと、音にはなりません。今、思えば、初対面の大先生に、その奏法では如月管は鳴りませんよと、別の尺八を手にして、境先生の腹を押したことを思い出し、大変失礼なことをしたと反省しています。その後、私も弘前郊外、浪岡在住の方から、如月銘の地無し管を一本入手することができましたが、太くて息受けの良い尺八です。この尺八も、かなり吹き込まれたように見えますが、たまに手にして息を入れても、嘲笑うような音味しか出ません。以前、法身寺での献奏大会に一度、この尺八で錦風流獅子の曲を吹いたことがありますが、一カ月間、毎日稽古で息をいれましたが、吹き始めると、その音味に聞き惚れて、何度でも曲を吹き続けることになりました。私の体の一部として機能する尺八にさすが、如月師の技はすごいものだと感心しました。このことから、やはり古管尺八は、収蔵庫にしまうものでもなく、また博物館に飾る物でなく、絶えず手にして息を入れることが一番大切なことだと感じました。また、これまで、弘前訪問で出会えた折登如月作の尺八、寸法や内部の作りなどを参考に、年末に岡山県高梁市の実家に帰省するたびに、遠路、広島県北部まで出かけては、岩場に生えた、堅い竹を探しては、錦風流尺八を製管してきましたが、材料はいくら百点でも、錦風流本曲の音のつながりは、明暗本曲と違い、非常にむずかしいところがあります。現代管に地を付けないで、本曲用の地無し管として販売されているものもありますが、、明暗本曲ならば、問題はないでしょうが、錦風流本曲を吹くとなれば、どうしても折登如月作のような尺八が必要になります。私が製管しました、如月管もどきでは、錦風流、調の曲を吹いたら、出だしのウロ、ウツレを吹くだけで、思わず自分で笑うような、おかしな律になることが何度もありました。こうなれば、この尺八は庭の生垣になるだけです。琴古流尺八のように地付きの現代管で錦風流本曲を吹かれる方はただ歌口に強く息を吹きつけることが、当たり前のことでしょうが、弘前でも、昔、錦風流本曲のみを地無し管で吹いていた方と、琴古流江雲会の方が地付き管で吹く錦風流は、かなり違ったものであったとのことです。錦風流本曲の奏法には丹田呼吸の波浪息が大変に重要です。調の曲でも、ただ吹くだけではなく、最初のウでは、腹がへこみ、ロで腹が前に出て強く息を尺八の内部に入れ、残りの息があれば、それをコミ息にするわけで、今では、わざわざ息を吸ってコミを吹く人がいますが口伝で、コミ息は、水面の波紋が消えるように、あるいは釣鐘の余韻が消えるように吹くことが伝えられています。弘前に出かけるたびに、折登如月作の尺八に息を入れさせていただき、その音味をお土産に耳に残し、いざ自分の竹材で挑戦することは、これから、尺八人生が終わる時まで、続くかも知れません。今だ、満点の尺八は製管できませんが、それなりに使用できるものは、自分の手元で死蔵させることなく、弘前の錦風流伝承会に寄贈し、皆さんが稽古に活用しています。弘前では、小学生も四年生になれば、津軽三味線やねぷたの笛を皆さんが授業で手にしますが、弘前藩藩主が奨励しました錦風流尺八が地元でも消え去ろうとしていることに、非常に残念な思いがします。錦風流の故郷、弘前で錦風流伝承会が少しでも発展するように、これからも協力していくつもりです。