尺八関係の書籍や記事
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大黒屋光太夫と尺八

 

大黒屋光太夫と尺八

1.はじめに

日本とロシアが正式な接触を持ったのは、今から200年前、根室、松前を舞台に繰り広げられたのが最初である。それは、寛政四年(1792) 9月のことで、エテカリーナ女帝の命を受けたアダム=ラックスマンが使節となって、漂流民を引き渡すとともに、日本の交易を求めて根室に来航したことである。この時の漂流民こそ亀山藩領南若松村(現鈴鹿市南若松町)に生まれた大黒屋光太夫その人である。大黒屋光太夫は、加藤曳尾庵の『我衣』によると、宝暦元年(1751)南若松の当時船宿を営んでいたとされる亀屋に生まれ、名を亀屋兵蔵と称し、8才の頃父(四郎次)を亡くしたようである。その後、江戸に奉公に出て、江戸大傅馬町中心に隆盛を極めた伊勢商人の活躍の場に身を置くこととなり、そして、運命の伊勢白子を出帆となる前に国許若松に帰り、大黒屋に養子に入るとともに光太夫を襲名したとある。しかし、それにしても確たるところは未だ不明であり、商家大黒屋に生まれ、後に亀屋へ養子に入ったとする以前からの説も否定できず、今後の文献資料等の発掘を待つしかない。なお当時、亀屋・太黒屋・戎屋など相当の店が立ち並ぴ、参宮客で賑わったとされる南若松の港(船着場)付近は、打ち続く地盤沈下と浸触により、光太夫の生家を含め現在では海中あるいは海浜に没してしまっている。南若松に船若場が存在したことを物語る「すぐ船場」の道標が、今も若松小学校の校庭に保存されている。

2、 漂流7ヶ月

天明2年(1782) 12月9日、伊勢白子(紀州領)の港から廻米、木綿、雑貨などを積み込んだ神昌丸(一見勘右衛門所有)は江戸に向けて船出した。船頭は大黒屋光太夫、船親父は三五郎、総勢十七名の乗組員であった。伊勢の海の玄関口である鳥羽は日和山に風待ちをし、天明 2年12月13日に誰ひとりとして予想もしない運命の待つ外洋へと乗り出していったのである。遠州灘にさしかかったその夜、天侯が急変、海上は暴風が吹きつのる大荒れの海となった。舵をへし折られ木の葉同然の中、帆柱を切り倒し積み荷を捨て転覆だけはまぬがれた神昌丸、あてどなく波間を漂流する結果となった。光太夫以下乗組員は絶望のどん底に打ちひしがれ、神宮の御みくじにもすがりながら漂流すること7ヶ月、天明3年(1783) 7月アリューシャン列島の中の小島、アムチトカ島に漂着したのである。その時、すでに幾八は病弱で息を引きとり、桶に詰められ水葬されていた。

3、 アムチトカ島からイルクーツクヘ

上陸後、7名もの仲間を次々に失った光太夫たち漂流民は、島の原住民やロシアから来ていた毛皮商人らとの交流の中でなんとか命をつなぐとともに、島からの脱出を考える。ロシアからの迎えの船も嵐で沈没したため漂流民とロシア商人たちは、材木を集め自力で船をつくり、在島4年の歳月を過ごしたアムチトカの生活に区切りをつけカムチャツカに向けて船出する。その時、生き残った仲間は総勢9名となっていた。わらをもつかむ思いでカムチャツカに渡った一行は、厳寒のカムチャツカの生活に耐えながらも、1日もはやい伊勢への帰国を望んだが、当時のロシアは、イルクーツクにシベリア総督府が置かれており、光太夫たちの運命はその指揮の下にゆだねられていた。このカムチャツカでは、慣れない生活、特に食物には殊の外不自由で餓死寸前の状態にまで追い込まれることもあったが、厳しい冬を死に物狂い耐え抜く中で、光太夫の聡明さと統率力はよく仲間をまとめた。ともすれば、挫折感にうちひしがれそうになる仲問をはげましてきたものの、このカムチャツカでも3名の病死者を出し、シベリア大陸のオホーツクに到着した時には6名になっていた。その間の光太夫の様子をフランスのジャン=レセップスは、旅行日録に書きとめている。「名前はコーダイユ、彼はたいへん好奇心に富み、鋭い観察力を持ち、身辺に起こったことは正曜に日記に書き記している。ロシア語も理解でき、仲間によく配慮し、不機嫌になることはなく…………」など、光太夫のことを大いにほめる描写が見られる。カムチャツカにおけるほんの3日間とされる接触にもかかわらず、レセップスは、光太夫という人物を実にあざやかに日録に記述し、ヨー一ロッパ諸国に伝えているのである。オホーツクからヤクーツクを経てシベリアの中心都市イルクーツクまで、生き残り漂流民は、日本へ帰国できることを一途に念じながら、昼夜の別なく零下50度を超える厳寒の原野を旅したのである。その辛さは、何にも例えようがなく、このような自分たちの不運を嘆きつつも、ただ帰国というひとすじの光明をはげみとして生きぬいてきた6名の漂流民(光太夫、磯吉、小市、新蔵、庄蔵、九右衛門)たちは、やっとの思いでイルクーツクに到着した。伊勢白子を出てから実に7年もの歳月が流れた寛政元年(1789) 1月26日のことであった。

4、 キリルとの出会いと帰国実現へ

こうして困苦の果てにたどり着いたシベリア第一の都市イルクーツクではあったが、光太夫たちを待ち受けていたのは、道中凍傷にかかった庄蔵の片足切断をはじめ、九右衛門の病死、新蔵の大病であった。そして、何よりイルクーツク駐在の総督への重ねての帰国願いも握りつぶされ、帰国許可が却下されるという絶望的な状態に加え、しつこく日本語教師になることを強制されたのである。何としても帰国したいと願う光太夫たちは、日本語の教師になることを拒否すると、生活費は打ち切られ、万策つき暗たんたる日々を過ごさなければならなかった。進退きわまった光太夫たちの前に、運命の救い主となったのが、その地でガラスエ場を経営し、日本にとりわけ関心の深かった自然科学者のキリル=ラックスマンとの出会いであった。この出会いこそ、あくまで日本語教師になることを拒否し、何としても帰国の許可を得たいとする光太夫を勇気づけた。らちのあかないイルクーツクの総督を見限り、六千キロも離れたペテルブルグに出向き、エカテリーナ女帝に直接帰国許可を願い出るという最後の切札に全てを託した。キリルとの出会いがなけれぱ今日の光太夫はなく、この漂流話はイルクーツクで終わり、光太夫もその名を歴史に残すことはなかったであろう。光太夫は・キリスト教に帰依し日本に帰ることを断念した新蔵、

庄蔵、そして磯吉、小市を残し、ロシアの首都ペテルブルグを目指してイルクーツクを後にしたのである。寛政

2年(1790) 12月22日のことである。6千キロの道のりを1カ月余りでひた走り、寛政3年(1791) 1月28日に到着したロシア帝国の首都ペテルブルグで光太夫が目にしたものは、宮殿をはじめ、その壮麗豪華な都のたたずまいであり、光太夫にとっては、まさに驚きであり夢の世界とでもいうべきものであった。人が生きるには極限の世界を漂泊し続け、故郷恋しさ家族恋しさから帰国への執念にとりつかれた光太夫は、加えてこのロシアの文化の素晴らしさを、何としても故国日本に、故郷若松に伝えなけれぱならないとの思いにもなったであろう。それは光太夫という人物の成長を物語ってあまりあると想像できる。ペテルブルグに着いて、キリルの献身的な尽力によりエカテリーナ女帝に帰国願いが提出された。そして、待つこと4ヶ月、ツァルスコエ=セロの離宮で当世きっての啓蒙専制君主といわれ、ロシアのヨーロッパ化を推進してきたエカテリーナ女帝に謁見が許され、帰国への強い願いを直接申し出ることができたのである。謁見は、女帝の「ベンヤシコ」(かわいそうに)の言葉で代表されるように上首尾に終わり、しばらくして光太夫たちの帰国願いが正式に許可された(寛政3年8月27日)。ロシアの地で故国にあててしたためた自筆の手紙の中で、日本に帰ることを「優曇華の花」(3000年に一度咲くというインドの想像上の植物)ともたとえてきた帰国が実現することになった。

5、帰国の途へ

ペテルブルグを離れるまでの光太夫は、まさに賓客待過を受け、ロシアの文物や社会の仕組みにも触れるとともに、芝居見物や天文台、図書館、病院、銀行などにも案内された。又、政府高官の家庭生活も経験するなど在京中に文化のいろんなものも目にしたのである。さらに、離宮の御苑長ブーシュの妹のソフィアから聞いたロシア歌謡「ソフィアの歌」をまるで自分の身の上を歌っているようだと捉え、感激して日本への土産のなかにもち帰った。それは『北槎聞略』の中にも記されている。さらには、光太夫は、エカテリーナ女帝の文化的事業にも協力して世界言語の比較辞典の改定に参与したぱかりではなく、ロシア滞在中に日本地図も描いている。やがて、女帝や知り合った人々から多くの銭別をもらい、寛政3年11月12日ペテルブルグを後に念願の帰国実現を土産にイルクーツクに向け出発した。途中モスクワを見物し、同年12月21日新蔵、庄蔵、小市、磯吉の待つイルクーツクに戻った。運命の岐路に立たされたなつかしのイルクーツクでは、日本語学校の教師としてロシアに残留することとなった片足切断の庄蔵や新蔵と、二度と生きて会うことのないつらい涙の別れを惜しんだ。そして、往きとは逆のコースでシベリアの大地を一路ヤクーツクからオホーツクヘと旅した。オホーツクでは、光太夫たちをこの地まで送ってくれた命の恩人キリル=ラックスマンの恩情に感謝し、苦節10年にわたるロシア漂泊の旅にピリオドを打った。キリルの息子アダム=ラックスマンが使節となって光太夫ら漂流民をのせエカテリーナ号は、オホーツクを日本に向けて出発したのである。

6、 根室帰還と日露交渉

寛政4年(1792) 9月3日、エカテリーナ号は北海道、根室の北バラサン沖に停泊、五日早朝には根室に到着し、そして、弁天島付近に錨をおろした。10年にわたる漂流、漂泊の旅を終えて夢にまでみた故国の地に足を踏み入れることができたのは、まさに奇跡にも等しい帰還であった。アダム=ラックスマンは、さっそく松前藩役人に来航の理由を述ぺるとともに、直接江戸への航行を希望している等の内容の書簡を提出した。それを受けて松前藩は、こうしたラックスマン渡来の報せを急ぎ江戸へ進達すべく急使を派遣したのである。寛政4年10月19日、ラックスマン渡来の報を受けた幕府の筆頭老中松平定信は、対策を協議し、沿海の防備に意を払うとともに来航したロシア使節を根室に留め置き、丁重に応対するよう指令を出した。また、ロシア使節と交渉にあたる宣諭使として、目付の石川将監、村上大学の両名を松前に派追することを決定した。一方、根室入港を果たしたラックスマンは、宿舎建設等の準備をし、幕府の指令を待つベく根室に越冬することとなった。ロシア側としては、光太夫ら漂流民を送還するこの機会に、鎖国日本と交渉を持つことで通商関孫の樹立を望んでいたことは、エカテリーナ女帝のイルクーツク総督にあてた指示にも明らかにされておりよく知られている。漂流民の送還は、あくまでも手段であって渡来の主目的は日本との通商関係の樹立にあったのである。しかし、使節アダム=ラックスマンは、根室や松前における交渉では漂流民送還を正面に掲げ、本来の目的である通交、通商関係の樹立のことは背後に伏せようとする姿勢をみせるのである。年も明けて寛政5年(1793)の春4月2日に、漂流民の小市が壊血病で46才の生涯を閉じた。幕府は、せっかく祖国の地を踏みながらのこの不運をあわれんで、後に妻のけんに銀十枚と遺品を下げ渡した。その遺品の一部は、現在若松小学校の光太夫資料室に保存展示されている。ラックスマン一行が、初めての日露交渉に臨むため根室から移動して松前に到着したのは寛政5年6月20日であり、翌21日交渉場所の松前藩浜屋敷に赴き、幕府役人と第1回の日露交渉を行ったのである。その後、会談は2回にわたって行われたが、幕府は「請取証」を届けて、光太夫、磯吉の二人の漂流民を受け取るとともに、ラックスマン提出のロシア側の公文書は受理することはせず、希望であれぱ長崎に出向いてほしい旨を伝えて長崎入港許可証(信牌)を与えている。この信牌の写しも光太夫資料室に保存されている。こうして長崎入港の「信牌」を得て、一応の面目を保ったラックスマンは、7月16日にオホーツクに向かって帰っていった。後になってレザノフが使節となって長崎に来航し、「信牌」をもって日本との通商関係樹立を第一の目的として交渉を求めることになる。

 7、漂民御覧と薬園留め置き

松前において日本に引き取られた光太夫、磯吉の二人は、幕府役人に付き添われて江戸に送られた。江戸到着は、寛政五年八月十七日である。その後の二人を待っていたものは、かれらが江戸時代におけるヨーロッパの国からの最初の帰還民であることもあって、度重なる取調べであった。そして、翌9月18日には、江戸城内の吹上上覧所へも召し出され、将軍家斉、老中松平定信らの前でロシア漂流中の子細について訊問がなされた。その時の様子は、上覧の場に同席した桂川国瑞甫周が『漂民御覧之記』に記している。それによれぱ、光太夫の装いは髪を三つに編んでうしろに垂らし、黒皮の長靴をはき、胸にはエカテリー女帝からいただいた金メダル、そして筒袖の外套…磯吉も靴の他はほぽ同じであった。その出で立ちは、とても日本人とはみえずオラソダ人をほうふつとさせるものであった。将軍の前で役人が聞き糾す見聞体験を、光太夫は実にそつなく、そして当たりさわりのないように慎重に受け答えをしている。桂川甫周は、上覧後も時々光太夫を訪ねて詳しく事情をききとり、『北槎聞略』11巻としてまとめたのである。今日に残るこの『北槎聞略』は、光太夫を語る資料であると同時に、当時のロシアの風俗習慣等について詳しく書かれている貴重な生きた史料として、最近その価値が評価されるに至っている。幕府は、光太夫、磯吉二人の取り扱いについては、寛政6年(1794) 6月になって、長年の苦難の末に帰国したことは賞すべきこととして褒賞金は与えるが、特別の事情あって今回は故郷若松へは帰さず、江戸番町薬草園の住居に手当金を与えて留め置くとしたのである。こうして光太夫らは、みだりに外国の様子を語ることに制約をうけながら薬草園で暮らすことになった。光太夫らの薬草園での生活については、詳しくは判っていないが、光太夫は妻を迎え一男一女をもうけている。息子の亀二郎は、後に大黒梅陰と称する儒学者となっている。又、光太夫らは軟禁同様の生活を送っていたとする見方もあるが、行動については、かなりの自由が認められたようである。大槻玄沢ら蘭学者の集まりとしてよく知られている「オランダ正月」芝蘭堂新元会に出席したり、多くの蘭学者と交渉を持ったようである。光太夫のような優れたロシア通を蘭学者が放っておくわけがなかったのであろう。

8、光太夫の一時帰郷

一方、磯吉は故郷若松への一時帰郷が許されている。寛政10年(1798) 12月18日から翌年1月17日までの30日間ほどである。若松に帰った磯吉は、南若松の心海寺の住職の実静にロシア漂流話を語って聞かせている。心海寺には、実静が聞き書きしたものが『極珍書』と称 した光太夫漂流実録が所蔵されている。このとき、光太夫もほどなく若松に帰ってくるであろうことを磯吉はほのめかしているのである。こうして、光太夫は磯吉に遅れること4年、享和2年(1802) 4月に一時帰郷が許されている。数年前まで、光太夫は一度も故郷の土を踏まなかったというのが定説であったが、昭和61年8月南若松の倉庫から発見された古文書によって、この定説はくつがえされた。光太夫は享和2年4月23日から6月3日までの40日問、勘定奉行の預りとして帰郷していたのである。故郷若松に戻った光太夫は、若松逗留中に肝煎の中川喜右衛門、甥の彦太夫に付き添われて伊勢参宮を行い、また白子の一見勘右衛門の家も訪ねているのであるが、出帆後20年、光太夫の胸中は察するに余りあるものがあったであろう。関の地蔵にも参詣し四十日間の帰郷を終え、東海道を下って江戸に戻った。こうして念顕の帰郷を果たした光太夫は、磯吉と共に番町薬草園で余生を送ることとなる。

9、 光太夫の功績

光太夫の菩提寺である若松の緑芳寺には遺品が伝わっている。また、あちこちに残されている遺墨は、江戸で余生を送る光太夫が求めに応じて筆をとりロシア文字などを書いたものであろう。光太夫が漂泊の旅を続ける中で覚え知ったロシア語、そして知り得たロシア・ヨーロッパの情報等は、桂川甫周は言うに及ばず、仙台藩大概玄沢、下総国古河藩の家老鷹見泉石、幕府天文方足立佐内ら多くの人と交渉をもつ中で伝えられた事実ひとつとってみても、開国への足音がしのび寄る日本にもたらした影響は大きいものがあったと考えられる。それにしても、今もドイツのゲッティンゲン大学に残る光太夫の手紙は、故国にあて数通したためた手紙のうちの一通であり、彼の苦しい胸の内を切々と吐露した貴重なものである。また、光太夫が日本から持参したであろう『節用集』を参考にして、ロシア側から求められて作成した日本地図等、光太夫の遺品を知るにつけても、光太夫の優れた才能と教養が偲ばれるのである。苦節十年の旅を続ける中で常に持ち歩いたといわれる筆墨で、こまめに日記を記すなど、その人柄は一介の船乗りではなく、円満な知識の持ち主として品格を身に付けていたと想像されるのである。

10、波乱万丈の生涯

こうして、思わぬ数奇な遅命にもてあそばれ波乱万丈の生涯を送った光太夫は、薬草園入りから実に34年を経て、文政11年4月15日、享年78才の生涯を閉じたのである。その亡骸は、江戸本郷興安寺の墓地に埋葬された。また、磯吉は天保9年(1838) 11月15日、73才で死去して同じく興安寺に葬られた。しかし、現在のところ両名の墓石は見当らない。なお、南若松東墓地には、漂流後の二年目に、三回忌の追善供養のため伊勢松阪の商人によって供養碑が建てられた。又、亀屋が光太夫の実家であろうが、養家先であろうが、同じく山中墓地に存する亀屋の墓石は、これこそ光太夫の生まれ故郷を象徴するものとして、顕彰に値するものがあると言える。ここに、光太夫の帰国200年にあたり、日本とロシアとの国際文化交流の先駆者として、改めて認識を深め、歴史の一頁を画した大黒屋光太夫の遺徳を偲ぱずにはおれないのである。

「郷土資料館 - 伊勢漂民 大黒屋光太夫物語より」

*大黒屋光太夫と尺八について

 山下恒夫著 大黒屋光太夫  (帝政ロシア漂流の物語)「岩波新書」

 この小説の中で158ページに尺八のことが登場しています。

 また、オホーツクでは、チギーリの守備隊長だったイワン・ノリンが政庁の役人として転任してきていた。旧交を復活させた光太夫は、このノリンに尺八を伝授したそうだ。エカテリーナ号の出港が予定よりずっと遅れたことが、尺八の伝授には時間がとれて好都合だった。ノリンはとても筋がよく、名品「恋慕流し」をどうやら吹けるまでになった。それで、ノリンの努力も祝して別れの記念にと尺八を贈ると、それは大喜びだった。オホーツカ(オホーツク)の県官イワン・フョウドウェチ・クリン(フョードロヴィチ・ノリン)に尺八を教えたりし。かの国になきものなれば面白がりたり。れんぼ(恋慕流し)相応に出来たりしゆえ、尺八をもやりて来たりし・(「幸太夫談話」)

法燈教会趣意書(その1)

以前、大阪在住で明暗蒼龍会の長老・前島竹堂先生宅を訪問した時に拝領しました資料です。昭和24年に法燈教会が設立されましたが、その後、発展もせずに消滅したとのことです。由良興国寺の古川華陵老師が会長、副会長は櫻井無笛師となっています。岡本竹外先生宅に稽古に出かけると、よく古川華陵老師の話がでました。岡本竹外先生は古川華陵老師のもとで参禅されたとのこと。櫻井無笛先生は岡本竹外先生の師匠でした。岡本竹外先生は琴古流は新潟鐵工勤務時代に、菅井一童師に師事されました。ある夏に、地元の新潟で開業していました医師の仲村洋太郎氏が、東京や大阪から有名な尺八やお琴の先生を招いて演奏会を開催、岡本先生は、その演奏会に出かけたら、今まで経験のない、地無し管で演奏された九州鈴慕を聞き、これをやりたいと、その夜は、九州鈴慕を演奏された大阪の櫻井無笛師を自宅に招いて指導を受け、それが明暗尺八の世界に入るきっかけになったそうです。
趣意書の表紙(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)

法燈教会趣意書(その2)

趣意書の中に普及部として前島笛潮の名前がありますが、前島竹堂先生のことです。
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)
趣意書の内容(クリックで画像を拡大)

法燈教会趣意書(その3)

趣意書の内容(クリックで画像を拡大)

虚無僧寺・西向寺記念誌(西向寺奉賛会)令和3年3月

この度、西向寺奉賛会、代表 渡邊照洞氏で「東海道神奈川宿・虚無僧寺西向寺」と題して記念誌が発行されましたので紹介をします。
神奈川県伊勢原市伊勢原1-20-3
電話0463-94-2608
代表 渡邊照洞
記念誌の表紙(クリックで画像を拡大)
記念誌の発刊にあたって(クリックで画像を拡大)

日本の音をつくる(その1)(昭和52年・朝日新聞社発行の書籍より)2021.6.7

古書店で見つけた「日本の音をつくる」と題した書籍の中に尺八製管士・海老沼竹揚氏の記事が掲載されていたので、参考までに掲載します。この時代の日本の楽器の製作者の方々、作業風景に味わいがあります。
表紙(クリックで画像を拡大)
尺八の記事(クリックで画像を拡大)
尺八の記事(クリックで画像を拡大)

日本の音をつくる(その2)(昭和52年・朝日新聞社発行の書籍より)2021.6.7

作業風景(クリックで画像を拡大)
作業風景(クリックで画像を拡大)

第1回現代日本音楽祭(その1)昭和50年12月11日(青山学院大ホール)

昭和50年12月11日(木)法政大学三曲会主催で第1回現代日本音楽祭が青山学院大学大ホールで開催されました。私は昭和47年に宗家竹友社の師範の方に入門しました。それからは、東京で開催される三曲合奏の名手たちに演奏を何度も聞きに出かけました。この演奏会でも、三曲合奏や現代邦楽の名手の方々の演奏もありましたが、これまで体験したことのない尺八には驚きました。酒井竹保師の虚鈴、高橋虚白師の阿字観でした。虚鈴では、長い巻物のような楽譜が机の上から横に長く広げられ神秘的な中での演奏でした。高橋虚白師は虚無僧姿で舞台を歩きながらの阿字観の演奏でした。この2曲だけは、いまだに鮮明に覚えています。後に岡本竹外先生に入門して、これらの曲を学ぶことになりました。
プログラムの表紙(クリックで画像を拡大)
当日の演奏会の曲目(クリックで画像を拡大)
酒井竹保師の1(クリックで画像を拡大)
酒井竹保師の2(クリックで画像を拡大)

第1回現代日本音楽祭(その2)昭和50年12月11日(青山学院大ホール)

高橋虚白師の1(クリックで画像を拡大)
高橋虚白師の2(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(日本経済新聞の記事)2021.5.3

日本経済新聞(2000年1月26日)に掲載されました虚無僧研究会会長・小菅大徹氏の記事です。
小菅大徹氏の記事(クリックで画像を拡大)
小菅大徹氏の記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(東京新聞の記事)2021.5.3

東京新聞(1999年1月10日)に掲載されました普化宗の江戸番所資料が新宿区の指定文化財に指定された記事です。
法身寺に残る普化宗の資料(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(読売新聞の記事)2021.5.3

読売新聞(2001年2月7日)に掲載されました作曲家・池辺晉一郎氏の記事です。
池辺晉一郎氏の記事(クリックで画像を拡大)
池辺晉一郎氏の記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(その1)(リーダーズダイジェストの記事)2021.5.1

昔、私が購読していましたリーダーズダイジェストに掲載してありました、「尺八ー古くて新しい楽器」稲垣真美著の記事を掲載します。
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(その2)(リーダーズダイジェストの記事)2021.5.1

リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)
リーダーズダイジェストの記事(クリックで画像を拡大)

尺八関係の記事(高橋空山氏の記事)2021.4.29

1979年3月9日、日本経済新聞に普化尺八の大家・高橋空山氏の記事が掲載されました。その記事を掲載します。私が岡本竹外先生に入門したのが1978年なので、その翌年のことです。
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)
高橋空山氏の記事(クリックで画像を拡大)

稲垣衣白先生の手紙(その1)

稲垣衣白先生は虚無僧研究会設立の発起人であり、設立後は顧問として活躍されました。岡本竹外先生宅に稽古に出かけた時に、岡本先生から、こんな資料は稲垣先生は持っていないだろうと連絡したら、自分も持っていますとのこと。これには岡本先生も脱帽されたそうです。虚無僧尺八本曲について研究をされましたが、その中で、雑誌・三曲に掲載されました乳井建道師の「本曲余談」の記事に稲垣先生も感心を持たれたようで、乳井建道師のことについて、青森県弘前市の禅林街・鳳松院、黒滝さんは乳井建道師の奥さんの実家、ここから乳井建道師には長女・則子さんがいることを知り、稲垣氏が則子さんに出された手紙の写しを参考までに掲載します。後に、田村則子さんは田村琴子さんという名前になり、乳井建道師が昭和6年に錦風流本調子の譜のガリ版刷りを発行されましたが、後に田村琴子さんは、この本を500部再販され、虚無僧研究会や弘前の錦風流尺八伝承会に寄贈していただきました。
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)

稲垣衣白先生の手紙(その2)

稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)

稲垣衣白先生の手紙(その3)

稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)
稲垣氏から則子さん宛の手紙(クリックで画像を拡大)

稲垣束氏の記事(入隊を前にして)普化第17冊・昭和15年8月15日)

入隊を前にして(稲垣 束)(普化第17冊・昭和15年8月15日の記事)

愈々早ければ10月、遅くとも1月には、入隊と言うことに略々確定したので、病院の方は8月いっぱいで暇をもらい、また旅に出かけることにした。そして先ず信州から越後に廻ることにしたのである。信州にはたずねてみたい人で島木赤彦、越後では良寛禅師がある。第1日は信濃追分まで行く。東京から稲実る平野を抜けて、前に現れた山々の間を通りすすきの穂が出揃った軽井沢の高原を楽しみながら、旅の味を満喫して行く。駅から1キロ半余りある旅館「あぶらや」には白樺のちらほら見え隠れする林の中を通って着く。信濃追分には昔の宿場らしいにおいはない。然し数軒の家と、それに塚(これは中山道と北國街道との合するところにあるのであるが)だけは僅かに在りし日の面影をとどめている。第1日目の旅の印象は、旅に来て良かった。なぜもっと早くから旅に出ておかなかったのだろうと言うことであった。次の日は汽車の連絡の時間を利用して小諸で下車し、藤村の懐古園に寄る。懐古園には島崎藤村の「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむみどりなすはこべはもえずわかくさもしくによしなし・・・・・・」(千曲川旅情の歌)の詩碑がある。茶店に絵葉書を買いに寄る。茶店のおばさんが初めて碑の出来る頃には唯、何か碑が出来るそうな位であったが、いざ碑の除幕式と言う日になったら、ぞろぞろぞろぞろ日本中からえらい人達が集まって来て、初めて本当にびっくりした。それからは、この辺でも皆、藤村先生、藤村先生になった、等と正直な話をする。小海線はすばらしい眺めの良い線であった。汽車の、のろさ加減もお誂向きである。中でも信濃川上・野辺山。清里あたりが最も良かった。林檎の一ぱいなっている木も初めて見た。小淵沢で又、中央線に乗り換え、赤彦さんの歌碑をたずねる目的で上諏訪で下車してみる。ところが下りて見て、それが行き過ぎであることがわかった。バスで1時間余り、富士見と言うところ迄、引き返さねばならなかった。この歌碑のあるあたりでは、いくらかゆっくり出来るつもりで予定はしてきたものの、バスの中にいる中にもう日の沈む時間になってしまった。バスを下りる時、車掌がこの人は、同じ方に行かれますからと教えてくれた。しばらく後をついて行き、歌碑のありかを尋ねると、私もすぐ下を通りますからと言って案内してもらうことが出来た。バスの停留所から富士見臺迄は3.4丁の距離である。案内してもらった人の問いに答えて、自分はアララギには入っていないことが、唯赤彦さんが好きで歌集も一通り読ませてもらっていること、この碑をたすねることは、今度の旅の大きな目的の一つであること、明日は良寛さまの跡をたずねて越後の方に出ようと思っていること、等を簡単に告げた。「こちらから入ると裏口になりますが。」と言いながら細い道を左に曲がって、まxず赤彦先生の歌碑「水海之泳者等計而尚寒志三日月乃影波映呂布」の前に案内される。碑の右手の方に少し歩いて「ここから晴れた日には富士が良く見えます。」「あそこに見えますのが八ヶ岳です。」「その向こうが蓼科山で先生はあそこにある蓼科温泉に時々行かれました。」それから左手の方に歩いて行かれ少し小さい碑の前に立ち止まられ、「これが伊藤佐千夫先生の碑です。」と言われた。これが佐千夫先生の碑ですか。佐千夫先生の碑もここにあったのですか。何てにつかはしい、いい碑なんだろうとつくづく思う。丸みを帯びた形のいい自然石に「寂志左乃極爾堪弓天地丹御寄寸留命乎都久都九止思布」と書かれてある。そして佐千夫詠赤彦書と揃えて彫りつけてある。大きな土台石に、どっかりのっている。すわりの良い姿は私の想像する牛飼い佐千夫にも、ぴったりである。思わぬえものに嬉しさがこみあげてきた。赤彦先生は佐千夫先生を伴っては、自分の好きなこの富士見の土地に時々やって来られたと言うことである。これらの碑を見ただけでも、アララギも人達をなつかしく思う。案内をしてもらった人に、どうも有難うございましたと、お礼を言うと会釈をしながら自分の家の方へ帰って行かれた。茂吉先生の書かれた赤塚先生の歌碑の前に帰り虚空を一曲吹く。それから二つの歌碑が良く見えるところ迄さがって鈴慕の調べと鉢返しを吹く。吹く終わる頃には富士見台も大分暗くなりかけてきた。そばの少し高い所では、まだ小さい子供が五六人砂いじりなどしながら遊んでいる。晩は上諏訪で宿をとることにしてバスの停留所まで案内された道を引き返す。バスを待つ間に星かげだけはどんどん増して高原らしい夜空になる。バスを待っている自分の前を、一日の仕事を終えたお百姓さんが「おつかれさん」と言う様な挨拶を残して通り過ぎて行く。翌朝は下諏訪の高木と云うところに赤塚さんの以前の住居と奥津城のありかをたずねてから、越後の出雲崎まで行く予定で上諏訪の駅を汽車に乗る。月の名所、姨捨も車中より見る。中秋明月までには稲を刈り取ってしまって又田に水を張り田毎の月ができ上るのだそうである。出雲崎に着いた時には外は暗くなっていた。夏の延長で自分では、まだ日が長いと思っているのだけれども、もう実際には、かなり日が短くなっているのである。駅から町までバスに乗る。何処か適当な宿屋の前で下してくれと言うと車掌さん運転手に相談して「良寛さんのことなら熊木さんのところがいいなあ、そこのおっつあんなら、もの知りだし、良寛さんのものも沢山持ってござる」と言う様な話をしてその前で下してくれる。通された部屋のすぐ下のところが海で波が寄せたり引いたりしている。夜光虫が波打際でピカリピカリするのが見える。沖には漁船の灯が点々と見える。天の川の流れを延長すると大体佐渡ケ島のありかになるのだろう。生憎今日は主人が新潟に出掛けまして、ひょっとしたら今晩は帰らないかも知れません。居れば大喜びでお話もし、案内もするのですがと、挨拶に来る。主人はその晩は帰らなかった。翌朝、女主人が又良寛さまの軸物などを出して来て飯を食べている周りに掛けてくれ、良寛堂の拝観を佐藤さんにお願いしようと思って電話をかけましたら、生憎なものでして佐藤さんも今朝一番で新潟の方とかへ行ってしまわれたそうです。それでもう一人の鳥居さんと言う人にお願いして置きましたから、御飯がお済になりましたらご案内致します、と言ってくれた。案内された良寛堂の中には石堂があり、枕地蔵と「古へに変わらぬものはあらいそ海とむかい見ゆる佐渡の島なり」と言う歌とが彫り込んである。その石塔の裏面の扉を開いて、篤志の人々から寄進された禅師の遺品等を見せてもらう。線香をつけてもらって調子の一曲をゆっくりと献じてから案内にある良寛遺跡めぐりの栞を一枚もらい、鳥居さんのお宅で良寛禅師の色々のものを見せてもらってからバスと汽車を利用して遺跡めぐりに立つ。まず島崎の降泉寺に良寛禅師の墓をたずねる。お墓の前では虚空を吹く。駅への帰り道木村邸内の良寛禅師遷化の地で調子一曲を吹かせてもらい、次は国上山の五合庵へと向かう。夕ぐれの岡でバスを下り涌井と言う茶店で道順を聞くと小学校六年になるその家の子がわざわざ一緒について来て案内してくれた。かなりの道のりを少しも厭う様子もなくくれたのには何だか済まない様に感じた。然し有難いことでもあった。西口から登った五合庵への道は今でも中々険しくこんな道を村まで毎日托鉢に登り下りされるのは、さぞ大変なことだったろうと想像して見る。特に雨の降る日などは一人である。夕暮れの岡から又バスで東三条に出る。その夜の夜行でいったん東京に帰ることにする。四五日目には又東京を立って仙台秋田青森にでも廻ろうと思って先ず野蒜の後藤桃水先生のところにお寄りする。その晩、先生のお帰りは遅かった。実は先生は知らぬ間に或る県会議員の候補者から、唯一人の応援弁士として頼み込まれてしまわれて、そのお役目を果たす為に毎日、何か所かの応援演説に、民謡の話をしながら今日も歩いて居られたのである。翌日も11時の電車でお出掛けになることになっていた。その為、時間がないので朝御飯前から私に竹の稽古を始めて下さって、鈴慕を聞きながら丁寧に、大事なところを色々と直したり注意したりして下さった。そして行先のことを話すと、そうですか角館ならば小林旅館がいいでしょう。それから帰りがけにでも東根温泉に寄って御覧なさい。そこに行けば山形県の民謡は大体聞けますし大津絵の歌い手に縄野と言う人がいます。私が手紙を出して置きますからと言って下さった。先生のお宅を立つと仙台の小梨錦水先生のお家を初めておたずねして先生の霊前に鈴慕の一曲を捧げた。小梨先生のところにお寄りする様になった次第は、一通り稽古が済んで話をしている時、急な思いつきで、そうだそうだ私もしばらくご無沙汰しているし先生もこの頃は尺八の音をしばらく聞かれないだろうから、時間の都合がついたら一つ寄って鈴慕を吹いて行って下さい。あなたも孫弟子にあたるわけだし、そうしてもらえば私としても大変心持がよいからと言うお話が出、自分としても一度はおたずねして置かねばならない気持ちがあったので、それでは早速お寄り致して見ましょうと言うことになったのである。献曲を済ますと直ぐ秋田の方に向けて仙台を出発した。然しその日には、とても行きつけないので、鳴子で下りて一泊し、翌日は秋田角館の小林旅館に着く。この町は明日から三日間はお祭りである。早速胡弓と三味線の名人西宮徳末さんをたずねてみる。旅に出る前ちょっと葉書を出して置いたので楽しみに心待ちして居られたそうである。引きとめるままに四晩も小林旅館に宿をとることになった。お陰様で秋田のお祭り気分を充分味わうことが出来た。一日目等はオヤマに一緒に乗せてもらって三十分位もひかれてみた。オヤマと言うのは四ツ輪の木の車で真ん中の高い所に人形を飾りそれ等を背景にしてオバコ達が踊る舞台が前にあり、お囃子連中は人形や飾りや幕等でかくれた下の部分に陣取るようになっておって、前に付けてある網を町内の子供や若い衆達が声を掛けながら引いて歩くのである。オヤマは各町内で一つずつ出来る。お祭りが始まると、お屋敷(前の殿様)と氏神にまず挨拶を済ませてから町内を廻って歩き、おみきや祝儀等をもらった家の前とか或いは出征家族の家の前に止まって、秋田甚句とか、おばことか秋田音頭と言った様な唄や囃子に合わせて擂おばこ達が踊りを踊るのである。(ここに囃子と書いたのは太鼓、三味線つづみ横笛、摺り鐘等からなっている。秋田に来た大きな収穫はオヤマコ唄を初めて聞いたことである。秋田の民謡に又一つ好きな唄鄙増えた。初めてここに着いた頃には言葉がさっぱりわからなかったが、居る中に一つ二つと段々とわかる様になって来る。やっぱり日本語ならばこそ、と思う。そして段々言葉使いが耳に慣れて来るにつれて此の地方の人達の言葉の言い現し方がいかにも直接的で鄙びたているのに好感がもてる。田沢湖にも行って見た。水の奇麗さはすばらしい。深いことも特徴らしい。ちょうど夕暮れ時にかかったので景色も中々良かった。夏の朝などはさぞ良かったろうと思う。少し東京を立つのが遅すぎたのと角館に居すぎた為に十和田湖へは行く時間がなくなってしまった。それで十和田湖行は中止して後藤先生が手紙を出して置いて下さった山形の東根温泉に立つことにする。東根の本館前に着く。かなりのはげしい雨である。縄野さんは眼が不自由なので晩ではあるし、この雨の中を来てもらうのは気の毒だと思ったけれども、宿の女中が迎えに行ってくれ、縄野さんも喜んで来てくれ、大津絵を初め色々の山形の民謡を、唄ったり話したりして聞かせてもらう。翌日は斎藤、椎名等と言う人達も一緒に来てくれて、山形県の民謡を一通り、居ながらにして聞くことが出来た。これに一に後藤先生のお陰である。本郷館には二晩泊まって又東京に帰る。今度は故郷に寄って京都に向かうことにする。早ければ京都にいる中に軍医候補生の採用通知が来るかも知れない。然し居所さえ分る様にして置けば何処に入隊と言うことになっても間に合うと思って、出発したのである。第二の旅を終わって東京迄引き返した時、谷北無竹先生から今月の末頃入洛だそうであるが出来ることなら、もう少し延ばして十月一、二、三日に吉野山蔵王堂で行われる後醍醐天皇六百年御忌に出席されてはどうか、この法会中に献曲の依頼を受けたから、と言う意味の葉書が着いていた。三十日の夕刻先生のお宅に着くと先生はお留守であった。ご親戚の方で薬剤官として出征されていた方が戦病死されて、そのお弔いがてら二十四日に山口の方に出発されたままだそうだ。明朝十時ごろ皆で吉野駅に落ち合うことになったらしいから、その足で櫻井さんの所まで行ってもらえば、まことに結構だけれど、と奥さんのお話である。それで早速住所を聞いて大阪の櫻井さんの家を訪ね、その晩はそこで御厄介になる。その前日、星さんも櫻井さんのところに来られ、又谷北からの来信もあって、明朝即ち十月一日の朝七時に櫻井さんのお宅へ皆落ち合う様に連絡が取られていた。翌朝七時少し過ぎに迎えに行かれた星さんと一緒に旅疲れの色も見えず中々お元気で谷北先生がおいでになった。大軌電鉄を利用して直ぐに吉野に向かう。此の日の我々の乗った電車は超満員で身動きも出来ない位であった。が皆吉野山に行く人ではなくて橿原、畝忘などでもかなり下車した。吉野駅から蔵王堂まで約十二三町、途中まではケーブルカー等もあるのであるが余り人が沢山なので我々はぼつぼつ歩いて登ることにする。いざ登って見ると案外急で羽織袴に下駄履きと言ういでたちでは中々登りにくい。ケーブルのある辺り一帯が下の千本である。「吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは櫻なりけり」とか「花書よりも軍書にかなし吉野山」俳句もここまでいくといい、とか「古陵松柏吼天飄寺尋春春寂梁眉雪寒僧時輟帚落花深所説南朝」と小声で吟じながら、吉野山の詩としては此の右に出る詩はないだろう晝と感慨をもらしながら谷北先生もお登りになる。金剛山寺本坊で昼食を戴き、記念品等と共に、後醍醐天皇六百年御聖忌大法会次第を戴く。それによると午後一時からの大法要に引き続き奉讃尺八吹奏と言うことになって居り題は「時雨」と言うことになっていた。我々の吹奏経過と言うのは読経が終わるとお坊さん達は皆着席され、我々が直ぐに正座に着かされて、導師無竹先生の後に三人一列に並んで「虚空」の献笛を二尺管で吹奏したのである。吹奏し始めたのは予定が次第に遅れて来たので恐らく午後二時半近くであったろう。堂内は非常に静粛であった。その為、最後の余韻まで吹き終わらせてもらうことが出来た。献笛が終わると入場の場合と同じ様に又簫、篳篥等の献奏中に一同の退下が行われる。それについで外では平安許雅楽部員、京都禮楽会員の人々に依る舞楽は行われて第一日午後の法要が終わった。蔵王堂にいる時、金峰山寺の執事の方が挨拶においでになって、後醍醐天皇も大変尺八をお好みになり唯お吹きになったばかりでなく、御自身で製管すらも、おこころみになった、と言う話をされた。我々竹黨にとっては嬉しい話である。今度、天皇の御聖忌が大々的に営まれるに当たって、谷北先生のところに献曲の御依頼があったことも、その様な御縁がもとになったのであろう。その晩、我々は宿を「ほうのや」にとった。翌朝は五時迄には皆床を離れ、後醍醐天皇の御陵へ献曲に出掛ける。中の千本の終わりになる頃に、昭憲皇太后の「吉野山御陵近くになりならん散り来る花もうちしめりつつ」の御歌碑がある。御陵の御前で谷北先生を中心に一列に並び「虚鈴」の献曲をする。石段を下りて来て如意輪堂で又虚空を献曲。お堂を出て来ると住職らしいお坊さんが昨日はどうも結構な竹の音をご相伴されて戴くことが出来まして誠に有難うございました。唯今ご案内を言い付けて置きましたから、どうかごゆっくり宝物を御覧になってお帰り下さいませ。と言って門の外に出て行かれた。一通り御宝物の説明を聞いて宿に帰る。朝御飯を済ますと間もなく宿を出発。吉水神社、吉野神宮にお参り、吉野神宮駅から又大軌電鉄で櫻井さんのお宅まで引き返す。私はそれから又谷北先生のお供をして八瀬の先生宅まで帰った。晩は先生に「虚鈴」の稽古をして戴く。虚鈴は明暗流尺八の特色を随分はっきり持っている曲だと思う。翌三日は谷北先生のところの仏様の命日だったそうである。午前中お墓参りにお出掛けになり、お坊さんが来られてお経をあげて戴かされたりした。午後、小午睡の後、松茸狩りに私を連れて行って下さった。此の松茸狩りは私にとっては此の旅を通じての非常に印象的なものであった。それ故少し詳しく書いておきたいと思う。この日お天気は朝からどんよりとしていて降りみ降らずみと言ったお天気具合であった。大した降りも無さそうだからと言って松茸狩りの服装を一揃い持って来て下さる。ズボンを佩き跣足袋をつけ脚絆を巻いて半纏の様なものを着て其の上から帯を〆、手には小手をはめ頭に手拭いをかむり、鎌一丁と籠を持つ。これで一人前に服装は出来上がったのである。出来上がった服装を見ると谷北先生の方は板についているのだけれども、自分の方はどうしても、にわかづくりのかけ出し姿と言ったところである。鎌は猪での出て来た時の武器になるのだそうである。木犀の花が咲き出すと松茸も出始めるのだそうで吉野山にいた時も木犀の花の横を通ると「もう松茸が出ています」とおっしゃっていた。先生は毎年九月二十九日頃に初めて松茸狩りに行かれ、二三本の松茸をとって来られるのが例だそうである。又松茸は少しづつの移動はあるが毎年殆ど同じ場所に圓を描いたり、帯状に生えたりし、同じ山でも場所に依って早い遅いが何時も決まっているとのこと。又毎年生えているところでも大きな松の枝を一本切った為に松茸が生えなくなったり、生える位置が変わったりすることもしばしばあると言う。昨年だったかの大暴風雨には非常に異動を来したそうである。「この辺りは随分皆でよく通った道です。西先生は俳句をひねりながら、奥さんは花を摘みながら、谷君は竹を吹きながら」等とお話になる。しばらく行くともう松茸の出るところらしい。ちょっと探す様にされたかと思うと「出てますます」と言って松葉を少しさばいて松茸の頭を見せられた。いい松茸が二本も頭を並べて生えている。「こんなにしてとります」と根本の方を握ってぐるぐる廻しながら取って見せて下さった。その周りには私などでも目につく様に松茸が隠れている。真似をして取って見ると心持のいい音をたてて少しも損なわれず根本から抜けて来る。一通り探してもう有りそうにないと次のしろの方に向かって歩いて行かれる。先生の様子を見ていると非常に気持ちがいい。一口に言えば非常に自然なのである。あんな風に採ってもらえれば松茸だって生えたことに満足を感じ採ってもらうことに喜びを感ずることであろう。しろに当たるあたりの松葉など殆どいためない様に移動させない様に探して歩かれ、同じ位の小ささの松茸でも余り大きくなれない様な位置や状態に生えたのは、さったとお取りになるが、まだまだ成長出来る様なのは、この次の時に残して置かれる。それが実に自然でできぱきとしている。そしてこの様なことが何時誰がとりに来ても良い山で行われるのである。残して置いたら人にとられるだろう等と言う懸念は何處にも見えない。此處にとりに来る人達は皆こんな風に松茸を可愛がりながら大事にしながらとりのかと思うと何だか心持が良くなって来る。線s寧は籠の穴を埋めるのにも無駄な木など一本も一枝も傷つけられない。足元にまばらに生えて居る歯朶の様なものをぷつんぷつんと鎌で切って上手に穴をつめ又これを松茸の下敷きにもされる。何時も早く出るところでは一本だけ大きく開いてしまっていた。「あれあれあそこにはあんない開いてしまっていますがな。こんなのは毎年二十九日頃に取りに来るとちょうどいい大きさで見つかるのですが。今年は来ようが遅かったので。」と言いながらお取りになる。こんな様にして五六箇所、しろを探して歩いた。其の中一二箇所がまだ出ていなかった朶これは毎年遅く出る場所である。「これでもう終わりです。」と言われる。本当は済んだ様な気がする。もういくら他の所を探しても無駄であると言うことが感じられる。まことに手に入った探し方である。これからは帰り道である。雨が少し降り出す。採った松茸を濡らすのは良くないと言って又鎌で歯朶を切ってかぶせる。先生は道の所々で下に落ちている松の枯れ枝をぽつりぽつり拾いながら帰られる。山のはずれ辺りで軽く一抱え位になる。松葉が付いたり付かなかったりしている様である。これで一週間や十日の焚き付けになるますと笑っていたりした。いくら慾深な山持でも先生の持たれた枝に己が所有権の存在を主張しそうにも思われないそんな枝ばかりである。山を下りながら、比叡山の方に当たる地形の説明をして下さった。松茸は持って行った籠に半分近くもとれた。晩はその松茸で早速お吸い物を作って下さった。朝はわざわざ松茸飯をたいて下さった。残りはおみやげとして皆私が家に戴いて帰ってしまった。大変香りのいいおいしい松茸であった。家に泊まること三晩、私は軍医候補生の採用通知を受けとった。そしてこの原稿は明日入隊すると言う日、やっと大いそぎで書き上げたのである。(十四年十月十五日)

追記

この記事の中で、金峰山寺本坊で後醍醐天皇後六百年大法会で谷北無竹先生他三名が献奏されましたが、その方々は、谷北無竹門下の櫻井無笛氏(岡本竹外氏の師匠)、星侶竹師、稲垣束氏。稲垣束(衣白)氏、岡本竹外氏は虚無僧研究会設立の発起人です。

稲垣衣白先生の記事

虚無僧研究会の設立、その後も虚無僧研究会の顧問として活躍されました

稲垣衣白先生が、学生時代に機関紙「普化」に投稿された記事を掲載します。

 

愈々1月いっぱいで学生生活も終わってしまった。15日も立てば医局の生活が始まる。ここで生活の上にくぎりを付ける為暫くの休みを利用して初の1人旅に出掛ける。

1.東北へ

 東北の寒さは一体どの位か、さっぱり程度がわからない。今の自分の体にとっては寒さが苦手である。で足先だけに特別防寒の注意を払い出発の用意をする。荷物は鞄1つに尺八1本。それに洋傘1本を携えた。尺八は去年春、京都の医学会について行った折、谷北先生の処から、無理におねだりしたのもで2、3日前、やっと銘の蒔絵が出来上がった。谷北先生の折角の御揮筆をいくらか殺してしまった様なきらいはあるが、まずまずの出来栄えなので先生にお見せ出来るのが嬉しい。旅に出かける前の稽古日浦本先生に旅のプランをお話すると、ではこんな風に行ってみてはとコースの話、それに3枚の紹介状を書いて下さった。この旅の目的は尺八の先生を訪ねたり、東北の雪を眺めたりするのが大体の目的である。三枚の紹介状は志野屋、後藤先生、それに橘屋旅館宛で、名刺の処にこう書いてある。稲垣さんといふ、私のところに親しくしている人がお尋ねします。都合では泊まるかも知れません。

志野屋御主人様。

 普化尺八会員にて只今、私の処で鈴慕を稽古しています、稲垣君がお尋ねします。よろしくお願い申しあげます。

後藤桃水先生。

稲垣君と申すお人が貴旅館に行きます。優待して下さい。

橘屋旅館御中。

汽車の中で読み返ししながら泊まるかも知れません等と書いて下さった処に案外1番長く泊まるようになるかも知れん等と考えてみる。第1日目の晩は「平」で下りて卒業の挨拶かたがた親戚へ寄り翌朝早く平をたって仙台に向かう。仙台には馬術の方の試合や学校からの旅行で二度許り来たことがある。駅の前で昼食を済ますと、すぐ電車で野蒜にむかう。東北須磨で下りて浦本先生の書いて下さった略図を頼りに志野屋までつく。志野屋は駅から十分位の距離のところにあるのであるが、電車に乗ると間もなく曇りだし、何だか雪模様のようで風もかなりある。歩いていると耳が非常に冷たい。行逢う人達は皆顔だけ出して頬かむり兼用の大きな襟巻をしている。この辺へ来ると、あの様な恰好が必要なのだろうと感心して見る。志野屋では部屋の用意が出来る間、あたっていた家族用の大きな「囲炉裏」が一番気に入った。爐の外側には灰でなく濱の砂が用いられ綺麗になでてあった。上からつるしてある茶釜の大きさも色つやも中々いいものだった。自分の部屋に入ってお茶を1吸飲むと直ぐ大塚の後藤先生を訪ねてみた。然し先生は放送局の用事でお出掛けになり、お帰りは昨晩9時過ぎだったが、今日も何時になるか一寸見当がつかないとのこと。明朝又、お邪魔に上ることを言伝えしてもらうことにして志野屋に引き返す。夜はかなりの寒さであった。朝起きて見ると雪が3、4寸も積もっていた。東北の雪景色だけは満喫出来そうである。旅装を整えて後藤先生をお訪ねすると、先生は心よく迎え入れて下さって、朝の10時から午後の四時半まで一緒に鈴慕を吹いて下さった。最初は小さく切々々。それが1通り終ってから全体を通して何回も吹いて下さった。然し大部分は小梨錦水先生のことについてであった。「先生は本当に名人でごわした。とうてい真似の出来ない竹を吹く人でした。ウンウン。」「先生が竹を吹かれるとまるで竹を楽しますために吹いて居られた様でした。」「我々の竹はせいぜい自分を楽します為に吹いているのです。」この様な感慨を含めた言葉を聞かされて非常に嬉しかった。この言葉を聞く為だけにでも仙台位まではやって来てもいい様な気がした。それから「小梨先生の先生である黒澤と言う人は、もっともっと名人だったそうで、小梨先生も一度で良いからその先生の竹を聞かせたかった。もう腰が曲がってこんな格好で吹かれたが、それはすばらしいものだった。と言う事を時々言われたものです。昔の人は皆うまかったものらしい。」「小梨先生は稽古に行っても余り竹を吹かれなかった。3度も吹くと、もうさっさと竹をしまって了はれる。そして長い時間稽古をしても仕方がないと言って居られた。我々と一緒に稽古に通っていた者でも、それが面白くないと言って稽古に行くのを止めて了つた者もかなりある。」「小梨先生は貧乏だったので障子等も破れたままにしてあった。我々弟子連中は出かけて行って自分たちの手で障子の貼り替え等をやったりしたものです。私共はそんな教育を受けて来ました」「私が小梨先生のところに初めて稽古に行ったのが17歳で先生は28でした。先生は20位で、あのくらい上手になってしまわれたらしい。先生は23の時片目を不自由にされて虚無僧にも出られなかったのだが」その他、小梨先生のことに就いてはまだまだ話された。それから虚無僧に初めて出る時の話や、まだ1度位は暖かくなったら出てみたいこと。又、私などにも機会があったら出てみるといいこと等をお話下さった。四時半頃、先生宅を辞して又仙台に引き返した先生はわざわざ大塚の駅まで送って来て下さった。仙台駅に着くと又、ぱらぱらと雪が降りだしていた。仙台では針久本館に宿をとることにした。ひと風呂浴びて夕ご飯を済まし、そこから余り程遠くない跡付町に小笠原清太郎と云う老人を訪ねて見る。その老人は竹つくりであって小梨先生に竹を習いながら小梨先生の竹だけを作っていた人である。小梨先生没後は竹を吹かず竹を作らず、一介の飴売りとして木の箱の様な乳母車を引き小さなラッパを吹きながら飴を売って生計の足しにしている人である。然しこの冬は体中が痛くてずーつと床につきづめだそうである。私が尋ねて行った頃には大きな炬燵を入れてもらってもう眠って居られた。私が行ったので息子夫婦に起され、目をこすりながら、それでも嬉しそうに目を覚まされた。携えた一管を出し、あなたの作られた名管が1本私のところに来ましたよ。京都の谷北先生が名前も付けて下さって、こんなになりましたと渡すと、嬉しそうになでて居られた。「昔、或坊さんが何かいい音がするので藪をのぞいて見ると、竹に一つの虫のくった様な穴があいて居て其のところに風が吹き付けホーと鳴っているのであった。」と云う尺八の来歴や又「尺八は一尺八寸だから尺八とつけたのではないです。これも尺八を、こんなに作り上げた人が、さてさて何と名を付けようかと思ってさんざ苦心したが中々いい名がない。そうこうしている中、ふと自分の虚無僧生活からヒントを得、長さの単位である尺を頭字に取り托鉢の鉢を後にくっつけて。尺八と名付けに、これまでの3年間もかかったそうです。だから長さは一尺八寸とは決まっていません。」と言う事や山谷、鶴の巣籠りの曲の出来た由来も話された。皆朴拙な仙台弁で話されたが、その味をここに書くことが出来ない。清太郎さんは余り大きくない丸顔で大きな鼻が顔の中央にどっしりと位置を占めている、純朴な中にどこぞに名人気質を持って翁である。後藤さんは書生時代からよく小梨先生のところに来られた。吹き振りも先生そっくりである。と言う様なことも言われた。持って行った竹で鈴慕の竹調べ一曲を吹いて別れを告げる。翌朝は仙山線経由で車窓から雪景色を眺めながら日本海岸の温海温泉まで行く予定で仙台を立つ。仙山線ではトンネルの中で十数分も反対列車が擦れ更はる迄待っていたりしたので一興であった。奥羽本線に乗り換えると段々すばらしい積雪である。杉の木等がかたまって生えているところ等はクリスマスツリーさながらである。駅々の近くでは人夫が大きな雪の塊りを運んでいた。緩い所で生れるとこんな生活なんかは夢にも見られそうにない。新庄迄の積雪は非常なものである。僅かのホームを歩いて陸羽線に乗り換えるだけでも吹雪のために雪だらけになった。乗り換える處、乗り換える處で汽車は遅れる。吹雪のために車窓は曇る。古口と言う駅まで行き着くと、先になだれが起こったからここで1、2時間は停車であると車掌が言って来る。やれやれと思っていると15分位で動きだしてくれた。それから間もなく吹雪はやんで最上川沿いのすばらしい景色を窓に寄りかかって眺めることが出来た。狩川邊から日本海方面に向かった雪景色は雄大なものであった。余目と云うところに着くと羽越本線が4、50分位遅れて来ると駅員が言う。この辺の人達の顔を見ると汽車の遅れて来ることなど、少しも気にかけていないらしい。皆当然らしい顔をしている。東京などにいると、自分などは時間の観念なんか余り明瞭でない方であるが、こちらの人達に比べるとそれでも引け目を感じざるを得ないのは我ながらおかしい。羽越本線に乗り換えても雪が降ったり止んだりする。地上の雪を吹き上げる景色も中々の見ものである。そんな中を村から村へ大人や子供が歩いているのが所々にに見える。よく雪の中へめり込んで了はないことだと感心した。この辺りは固い雪でも降るのかと邪推したりしてみた。聞いてみると、あれでも矢張り道があるのだそうで、人はその上を歩いているのだそうだ。温海に着く前、三瀬辺りから又盛んに降りだし、外は真っ黒くなって来る。温海の温泉部落は駅から道以上も歩くそうで、余り雪がひどいとバスも駅まで来るかどうかは疑問である、と或人が言う。下りて見てバスも車も無ければ一汽車遅れて、東京に直行する予定で下車してみる。下りてみると、まだ他に数人の人があってバスが来ることになった。予定より2時間以上遅れて橘屋に着くことが出来た。宿に着くと女中が真っ先に炬燵を持って来てくれた。湯につかって体を温め、夕ご飯を食べる。御馳走等も中々あって本当に優待である。外は風がかなり吹いていてガラス戸の音だけが、やかましく鳴っている。夏は中々いい所だそうだ。翌朝は温海を立ち日本海の波を見ながら清水トンネルをくぐってひとまず東京に帰る。

1.京都へ

去年の春、学会見物について来た道を、たどりたどりに宇治「花やしき」迄着いた。他に余り泊り客もいない一夜を明かして翌朝は朝飯を済ますと直ぐ谷北先生のお宅に出かけた。谷北先生のお宅に学会の終わりの日について行ったのであるが、いざ自分1人で行くとなると何処から何に乗り換えするのが一番良かったのか曖昧になってくる。先生のお宅に着くと例の離れ座敷に通され、炬燵にあたりながら今までしてきた旅の話などする。昨日、福島君がやって来たそうである。今日あたり京都を立つらしいとのこと、1日違いで京都では会わなかったわけである。福島君も私が東京を出ると間もなく旅行に出かけたらしい。八瀬の大橋はまだ不通であり、人足が川べりの修理や川底の整理をしている。谷北先生のこのお座敷も二尺位黒く壁が上塗りしてある。これ等は皆、昨年の八月だったかにやって来た大雨、大水の名残である。谷北先生のお宅には去年の五月頃修学旅行の道すがら、まだ一度お邪魔に上れる機会があったのであるが、出発少し前、偶然腹をこわして了って旅行に加わらず、とうとうお訪ねする機会を一度失って了った。先生は私の遠来の心をくんで下さってか望むままに虚空一曲を何度もお聞かせ下さり、また一緒に吹きながら直して下った。2月は日の短い性か、お暇する時が、またたく間に来て了った様でしたがなかった。然し、また来て見よう等と言う気休めを持ちながら暮れかかった八瀬の地をおいとまする。花やしきまで帰って来たら8時近くになった。10時頃まで竹を吹いたら葉書を書いたりする。翌朝は少し朝ご飯をゆっくり食べて花やしきを立ち虚竹禅師の墓を尋ねてみる。中々わからなかったが、ようやく尋ねあてて阿字観一曲を捧げる。吹かんが為に虚勢を張って吹いている様な、俗っぽい自分の尺八を淋しく思った。又、今度此の墓の前で吹ける日があるならば、もう少し俗人臭のとれた竹が吹ける様に、そんなことを思いながら普化塚の境内を出た。

 

著者(稲垣束)衣白・虚無僧研究会顧問

平成七年一月二十六日(八十歳没)