古典本曲について
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越後鈴慕・越後三谷の曲を伝えた斎川梅翁師のこと

斎川梅翁、本名・藤本梅吉、明治4年3月13日新潟市に生まれる。昭和42年4月6日享年97歳で天寿をまっとうするまでに実に80年間を尺八一筋に生きた人である。少年時代から自己流で民謡んどを吹いていたが、門附けして回る虚無僧について楽曲を習い、遂には越後明暗寺に伝わる三谷と鈴慕の二つの秘曲を習得した。また、虚無僧行脚をして関東地方をまわり、しばしば東京の尺八家や製管士を訪ねて三曲尺八や製管法を習っていた。明治時代には新潟市で尺八を教える者もなかったので、三曲尺八について、このようにして東京まで行かなければ六段の調さえも全曲が習得できなかったのである。日常は自作の尺八を街の夜店や近村の祭りに持って行き、虚無僧姿で尺八を吹きながら、これを売ったり、乞われるままに村の青年に尺八を教えたりして生活していた。また非常に声が良く、民謡や越後追分をよく研究して自分でも唄ったり、また唄うのもがあれば尺八で伴奏をしてやったりした。大正から昭和にかけて地唄や三弦や筝と合奏する三曲尺八が盛んになり、虚無僧姿で追分や民謡を吹いて門附けする尺八を見下げる風潮が強くなってきた。従って虚無僧行脚をして歩く梅翁の所で尺八を習うものがおらず、せっかくの秘曲三谷や鈴慕も世間に知られず埋もれようとしていた。然し中央の尺八家の間では越後明暗寺の秘曲を吹く斎川という名人が新潟市にいるということが知られており、たまたま昭和15年5月16日、東京の大隈侯爵亭で三谷を演奏している。機会を得て隣席の大臣始め貴顕紳士の絶賛を拍している。終戦後は東掘一番町の自宅に越後明暗流指南の看板をだすとともに、店に自作の尺八を並べて、これを売って生計をたてていた。たまたま、その頃普化尺八を専門に研究している尺八の大家、神如道が訪れ、乞われるままに三谷の曲を披露したが、如道は、これを採譜して越後三谷の曲名で全国に普及したのである。それと前後して、東京の坂野如延や新潟鉄工所の工場長だった岡本忠毅、学校町の尺八家小山峯嘯が師事して、それぞれ二つの曲を伝承している。
(新潟県三曲史より抜粋)
写真は、昭和10年5月、明暗寺歴代墓碑の前で献奏している斎川梅翁師

越後明暗寺歴代の墓前で献奏中の斎川師(クリックで画像を拡大)

越後鈴慕の楽譜(坂野如延筆)

東京在住の尺八家・坂野如延氏は新潟市の斎川梅翁師を訪ね、この曲を取得しました。同じ時に習った岡本竹外氏の楽譜と比較してもほとんど同じです。この楽譜は、坂野如延氏の弟子であった長堀榮次氏より、拝領したものです。長堀氏の思い出話として、この曲を坂野先生の所に習いに行くと、楽譜もなく、暗譜で指導されたが、自分は記憶力が悪く、途方にくれたが、ある時、神如道筆の楽譜を購入して、これで稽古をして、坂野先生宅に出かけ、一緒に吹いたら、途中で坂野先生の顔色が変わり、えらい剣幕で、そんな手を誰に習ったかと怒鳴りつけられたが、その時のことは、今になっても鮮明に覚えているとのことでした。いかに坂野如延氏がこの曲に力を入れていたがが、よくわかる話でした。この話を聞いた20日後に長堀氏は亡くなりました。
坂野如延氏の楽譜(1)(クリックで画像を拡大)
坂野如延氏の楽譜(2)(クリックで画像を拡大)

越後三谷の楽譜(坂野如延筆)

同じく坂野如延氏筆の越後三谷の楽譜です。
坂野如延氏の楽譜(1)(クリックで画像を拡大)
坂野如延氏の楽譜(2)(クリックで画像を拡大)

神保政之輔の巣籠

福島にて生涯を終えた、名人・神保政之輔師が吹いていました巣籠を引地古山師が明治24年19歳の時に神保に入門して3年の歳月をかけて相伝したと言われています。上段の写真は、小出虚風氏より送っていただいたものですが、神保政之輔から口伝にて引地古山師が相伝し、それが引地古山師の弟子、田村牧山、西岡虚雲、に伝わったことが書いてあります。この譜面の最初の部分に吹き方の細かい手が書いてありますが、この文章を読んで吹けるようなものではありません。一子相伝の技を受け継ぐには、習う人も技量が必要であり、昔の人は、本曲に対する情熱のすごさは、今の便利な時代に暮らす人は想像ができません。今から48年くらい前、東京・港区の竜源寺において、宮川如山直門の三島如水氏、引地古山師の弟子、田村牧山氏、西岡虚雲氏、岡本竹外氏等が集まり、古典本曲の研究会が開かれていました。上段の楽譜は、西岡虚雲氏が書かれたもので、この時、西岡虚雲氏は78歳でした。岡本竹外氏は、この会で神保巣籠を習得されたようです。下段の楽譜は、引地古山師から、樺島如風氏が習われたものを、岡本竹外氏が、書き直されたものです。この研究会に、富森虚山師の代理として出席されました、石井汲芳氏からも、当時の様子を聞くことができました。
西岡虚雲氏の譜(クリックで画像を拡大)
樺島如風氏伝(クリックで画像を拡大)

越後三谷の曲

この曲は越後明暗流尺八の伝承者・斎川梅翁師から昭和27年に新潟鐵工の工場長をしていました、岡本竹外氏が相伝しました。上段の写真は、岡本竹外氏が書かれた楽譜。下段の写真は斎川梅翁師直筆、この曲の吹き方を解説したメモです。富士山の画を描くように、裾野から音を上げて、頂上でコミを入れ、それからメリに入る。さらに山頂をお鉢巡りをし、そうして紫雲たなびくの手法で雲海をあらわす。ささらに曲の中ほどでは、口伝として越後明暗寺の開祖・菅原吉輝が、近江の琵琶湖畔で吹いた時に、湖水を渡って三井寺の晩鐘の音が湖面を伝わってきた情景を表現した手法があります。岡本先生から習いました楽譜を参考のため写真の上段に掲載しました。この曲は口伝の部分も多く、とても楽譜を見て吹けるものではありません。下段の写真は、斎川梅翁師が、岡本竹外氏に説明した斎川梅翁筆のメモ。
越後三谷の楽譜(クリックで画像を拡大)
斎川梅翁師のメモ(クリックで画像を拡大)

小野寺源吉伝鈴慕(錦風流別伝・鈴慕)

乳井建道師の本曲余談によれば、小野寺源吉が明治20年頃、虚無僧をして弘前に出かけ、乳井月影師宅で鈴慕と巣籠を吹いて聞かせた。その後、小野寺源吉師は3か月間弘前に逗留し、月影師や山上影琢師、福士影季師、乳井月影の門下、津島孤松師、折登如月師などが、この曲を熱心に稽古をした。弘前では、この鈴慕が宮城鈴慕として伝承されていますが、折登如月師の弟子、神如道師は松巌軒鈴慕と名前を変えて伝承しています。上段の写真は、折登如月師から神如道師を経て、岡本竹外師に伝わったものです。下段の写真は、折登如月師から井上重美師を経て、塚本虚堂師が伝承された譜面です。世間で吹かれているものは、すっかり舞台芸術用に、すっかり厚化粧したものになっていますが、塚本虚堂師の唱歌及び、吹奏を聞けば、宮城県の山奥で風に竹が鳴るような、自然の素朴な鈴慕に聞こえます。地無し管で、自然に吹く音楽から、地付きのやたら大きな音が出る楽器で、演奏する曲は、別世界のものでしょうか。 
岡本竹外師の楽譜(クリックで画像を拡大)
塚本虚堂師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)