錦風流尺八の資料紹介
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八雲本陣訪問 平成27年6月8日(月)

島根県松江市宍道町の八雲本陣を訪問し、木幡吹月コレクションの中の、御家流尺八笛譜(錦風流楽譜)を拝見しました。この楽譜については表紙裏に、明治32年、奥州南津軽郡本郷村・鎌田氏所蔵を書き写す。こう注意書き してあります。津島孤松師の直筆楽譜は、乙は朱で甲は黒で書かれています。楽譜に書かれている曲名は、調・佐可里波(下り葉)・松風志ら扁(松風調)・佐舞也都楽関(三谷清攬)・獅子・流し鈴慕

以前、弘前で拝見しました工藤兵一氏所蔵の楽譜と良く似ています。
折登如月師の系統の楽譜と思われます。 
御家流尺八笛譜の表紙(クリックで画像拡大)
表紙裏の曲目(クリックで画像拡大)
調、佐可里波の楽譜(クリックで画像拡大)
佐舞也都楽関の楽譜(クリックで画像拡大)

工藤兵一氏の所蔵していた錦風流・琴古流楽譜(その1)

平成25年10月10日(木)~10月13日(日)弘前訪問で、青森県黒石市の民謡尺八家、佐藤さんが所蔵していました、故・工藤兵一氏の楽譜を拝見することができました。この楽譜は、弘前市亀甲町で材木商をしていました工藤兵一氏が、書き残された楽譜です。工藤氏は、弘前市住吉町の住吉神社宮司、山村祐孝氏から習ったとのことです。工藤兵一氏は明治35年生まれで、昭和45年に亡くなりました。 
楽譜2冊の表紙(クリックで画像を拡大)
尺八ノ発端ヲ記載(クリックで画像を拡大)
尺八新造方法(クリックで画像を拡大)
錦風流:調・下り葉(クリックで画像を拡大)

工藤兵一氏が所蔵していた錦風流・琴古流楽譜(その2)

工藤兵一氏の書き残された楽譜には、錦風流本曲の本手、曙調子、雲井調子、それ以外に琴古流本曲、更に小野寺源吉が弘前に伝えた鈴慕、鶴の巣籠、また、明暗の本手調子、阿字観、虚空なども書かれています。 
琴古流秋田菅垣(クリックで画像を拡大)
錦風流、曙調子 調(クリックで画像を拡大)
小野寺源吉伝・鶴の巣籠(クリックで画像を拡大)
小野寺源吉伝・鈴慕(クリックで画像を拡大)

阿部孤鶴師のこと(続き)

錦風流・津島孤松師の弟子:阿部孤鶴(凶介)師のこと。平成25年5月31日調査(北海道函館市訪問)。阿部凶介氏は明治30年生まれ。昭和54年没。阿部凶介氏について、函館在住の長女の方から話を聞くことが出来ました。阿部凶介氏は新潟県の生まれ、生まれた年は天候不順で作物は不作であったが、子供には禍がないようにと、両親が凶介という名前を付けたとのこと。錦風流尺八は昭和5年に青森市の津島孤松師に入門、昭和6年10月に免許皆伝となる。錦風流五調子、鶴の巣籠を伝承した。瀧谷治郎(孤瀧)氏は、この年に津島孤松師に入門をした。函館在住の阿部孤鶴師宅に東京から稽古に通った長堀榮次(孤雪)氏は昭和54年に免許皆伝となる。長堀孤雪氏から生前に、阿部孤鶴師直筆の五調子の楽譜を拝領しました。訪問した日は、阿部孤鶴師の仏前で、錦風流調を献奏させていただきましたが、長女の方から、お父さんが、いつも吹いていた曲で、昔を思い出したとのこと。今回は、折登如月作の1尺8寸管で献奏しましたが、その尺八を見た、長女から、お父さんの吹いた尺八はもっと長かったとのこと。当然、阿部孤鶴師は津島孤松師門下なので、折登如月作の太い2尺管を吹いていたので、私の尺八が小さく見えたのでしょう。また、阿部凶介氏は、琴古流尺八は、初代川瀬順輔師の弟子。作八の雅号は華堂。函館では、多くの弟子を育てて活躍、初代川瀬順輔、里子夫妻を、たびたび招いては、函館公会堂で三曲の演奏会を開催したとのこと。冬の雪が舞う函館公会堂で、川瀬順輔、里子夫妻の「雪」の演奏は、すばらしいものであったと、阿部凶介氏の長女は、なつかしそうに語られた。今では、函館には阿部凶介(孤鶴。華堂)氏の伝承者はいない。さみしい限りである。
阿部凶介氏(クリックで画像を拡大)
阿部孤鶴師が玄関に置いていた看板(クリックで画像を拡大)
琴古流の看板(クリックで画像を拡大)

秩父宮殿下に錦風流尺八の御前演奏

昭和10年、昭和天皇の弟の秩父宮殿下が弘前31連隊に勤務することになり、その宿泊所は紺屋町にあった菊池長之邸が使用されました。ちなみに、作家・寺山修司の父親・八郎は秩父宮殿下警護のために、紺屋町臨時巡査派出所に巡査として勤務していました。この時に生まれたのが寺山修司であった。写真は、昭和11年12月4日午後7時30分に秩父宮殿下の宿泊所・菊地別邸において、地元の錦風流尺八家、斎藤周童(周蔵)氏と山谷孤山(義雄)氏の二人が御前演奏をした時の写真です。斎藤周童氏は、東大医学部時代に琴古流尺八家・三浦琴童師に学び、弘前に帰ってからは、錦風流尺八三名人の一人、津島孤松師に師事しました。山谷義雄氏は、19歳から津島孤松師について錦風流を学び、弘前では、猿賀神社の宮司であり、また警察官、町長も歴任された方です。御前演奏で、山谷義雄氏が使用されました尺八は、折登如月作の地無し2尺管、中継ぎです。また、斎藤周童氏の使用された尺八は地元の尺八家・三戸建次氏が所蔵されています。
御前演奏の記念写真は三戸建次氏から提供されたものです)
御前演奏写真(クリックで画像を拡大)

明治二年弘前絵図(その1)

錦風流尺八の歴史調査で、中心的人物として、また、錦風流尺八の祖として伴建之(勇蔵)師の名前が知られています。伴建之(勇蔵)師から伝わった曲を明治16年に乳井月影(永助)師が錦風流尺八本調子之譜として残しています。今回、弘前市の広瀬寿秀氏から明治二年弘前絵図の資料をいただきました。その地図に、伴建之(勇蔵)、乳井月影(永助)佐田大之丞、山形修助、などの当時の錦風流尺八家の名前があります。また、津軽藩主・寧親公の命により一月寺に入門し修行の後、弘前に帰った吉崎好道(八弥)の孫にあたる吉崎勇八宅もあります。伴建之(勇蔵)師は、明治3年までは弘前に住んでいましたが、明治4年(74歳)の時に、弘前市郊外、田舎館村垂柳に住居を移しました。明治16年の本調子之譜の中で真虚空は伴先生の門人・笹森太真伝の手なり、乳井月影(永助)、野宮玉洗(治左衛門)が笹森太真より明治7年に習ったと書かれています。明治7年に乳井月影(永助)、野宮玉洗(治左衛門)は、田舎館村垂柳の伴建之(勇蔵)先生(77歳)のところに往き、信偽を尋ねしその時、先生別に異議なかりしなり。こう記載されています。伴先生は翌年78歳で亡くなっています。現在、伴家の墓は弘前市新町247の浄土宗光明院誓願寺にあります。弘前市の広瀬寿秀氏から送られてきました、明治2年弘前絵図、赤い枠で書き込みました、左上から伴建之(勇蔵)宅その下が弘前誓願寺本堂にあります、明治20年、錦風流尺八家50名のうちの一人、山形修助宅、一番下が、錦風流尺八・初代宗家乳井月影(永助)宅 西小路に面している。弘前市の広瀬寿秀氏から送られてきました、明治2年弘前絵図赤い枠で書き込みました、左上から佐田大之丞宅、その下が吉崎好道(八弥)の孫にあたる吉崎家十一代の吉崎勇八宅。両家は相良町に面している。弘前市新町誓願寺本堂にあります、伴先生の追善額に記載されています、乳井月影(永助)師など錦風流尺八家50名の当時の所在を一人でも多く確認できればと思う次第です。

 

 


  

在府町に住んでいた名手たち(クリックで画像を拡大)
相良町に住んでいた名手たち(クリックで画像を拡大)

乳井建道(建蔵)師のこと(1)

錦風流尺八と小野寺源吉伝・鶴の巣籠の名手でありました乳井建道師も、その名前すら消えようとしています。ここに乳井建道師のことを紹介したいと思います。乳井建道師は、本名は乳井建蔵、乳井裕助の長男として明治22年6月23日、青森県弘前市在府町に生まれる。昭和6年3月、日本電気㈱を退職後、錦風流尺八の専門家として、関東、関西にて教授活動を開始しました。雑誌、三曲に掲載された昭和6年8月の暑中見舞いの記事には、「失われんとする古典本曲の為に」と題し、三谷・獅子・鈴慕流・通り・門附・鉢返し・虚空・本曲六段・宮城鈴慕・瀧落し、使用尺八は地無し二尺管又は地無し二尺二寸管。昭和9年11月号の雑誌、三曲には、祖父の雅号を継承して二代目月影を名乗っています。乳井建道師は、小野寺源吉伝の鶴の巣籠では、玉音の名手として知られていました。昭和11年に東京や大阪での活動をやめて、虚無僧をしながら郷里・弘前に帰り、弘前市代官町にて錦風流尺八道場を開設、陸軍で経理事務をっしながら活躍されていましたが、昭和20年3月7日、弘前市新寺町の自宅にて57歳で病死されました。乳井建道師の祖父は、錦風流尺八初代宗家・乳井月影師であり、今では弘前市禅林街、曹洞宗盛雲院にあります乳井家の墓地に祖父と、共に眠っています。
乳井建道師の貴重な形見の品々を、拝見させていただきました、乳井建道師の長女・田村琴子さんは、平成26年9月に、また、乳井建道師の長男・乳井 宏氏は平成27年1月に亡くなりました。平成27年5月9日、乳井宏氏の遺骨は、東京から家族の方の手により、盛雲院にあります乳井家の墓に葬られました。

乳井建道師(クリックで画像を拡大)
弘前での乳井建道師(クリックで画像を拡大)
舞台での乳井建道師(クリックで画像を拡大)

乳井建道(建蔵)師のこと(2)

乳井建道師の祖父、初代・錦風流尺八宗家・乳井月影師が明治16年に書き残した根笹派所傳「錦風流尺八本調子之譜」の原本が行方不明であったが、昭和6年8月8日、弘前市禅林街・盛雲院での月影翁37回忌追善演奏会にて、高坂月心氏の好意で原本が乳井家に戻ってきたので、乳井建道師がガリ版刷りで再版されました。弘前での錦風流尺八家の家には、この本が形見として残されています。では、昭和20年に亡くなられた乳井建道師が所蔵していました、明治16年の原本はいずこに。なんと、その原本を、乳井建道師の長女・田村琴子さんが、父の形見として所蔵していました。その原本を拝見すると、最初のページを開けば、長利仲聴直筆で錦風流尺八の由緒が、そして末尾には長利仲聴の花押が書かれています。乳井建道師の再版されたガリ版では、一閑流六段は伝承の四段までが掲載されていますが、原本では、野宮玉洗師・山上影琢師の合作による五段、六段が記載されています。
参考までに、原本はA-5版で表紙の文字は劣化のため読むことができません。 
乳井建道師が再版した本調子之譜(クリックで画像を拡大)
原本は高坂月心氏より返る(クリックで画像を拡大)
明治16年の原本(クリックで画像を拡大)
長利仲聴の文章(クリックで画像を拡大)

乳井建道師のこと(その3)

乳井建道師は、錦風流尺八は折登如月師の弟子ですが、東京に出てからは、錦風流二代目宗家・永野旭影師から、掲載写真の師範免状をもらっていることがわかりました。また、都山流尺八も奥伝の免状もありました。掲載写真にありますが、昭和8年、九州明暗の大家・津野田露月師から乳井建道師に贈られた書状もありました。長さが78cmの巻物。
原本にある長利仲聴の花押(クリックで画像を拡大)
原本の調の部分(クリックで画像を拡大)
乳井建道師の師範免状(クリックで画像を拡大)
津野田露月師からの書状(クリックで画像を拡大)

乳井建道(建蔵)師のこと(4)

乳井建道師遺稿より
今回、弘前市代官町に錦風流尺八道場を開設し、後進者を指導することにしたが、尺八は往時仏門修禅に用いられた事跡に鑑み、普通音楽とは自ずから類を異にし精神修練に資する事、多大なるを疑わない。即ち、往時、普化宗の法器として修禅に吹奏された曲を、今日では古典本曲と称するのである。錦風流の諸曲も其の遠原法器尺八から出て居る事は勿論、其の曲名から推しても首肯さるるのである。然らば、この法器尺八が如何なる経路をたどって津軽藩に伝来し、誰人に依って現在の型になったか、誰人に依って錦風流と名付けられたか。又、現況はどうであるか。仰々、錦風流の曲は津軽九代藩主寧親公に依って、我が津軽の里に植え付けられたものである。寧親公は如山と号し管曲の道いそしみ給い、特に尺八をよくした人である。尺八の本曲 
は武士として習わしめてよいものだと御主旨だったでありましょう。当時の侍臣、吉崎好道を文化13年に当時普化宗大本山金龍山一月寺へ派遣せられ、根笹派の諸曲を修業せしめた。 修業3年、文化元年7月に本則を授与され、帰藩以来、門人を取り立てて尺八を伝授した。而して、この本則は、今日、伝わっている。中略・・現在の如き曲風に完成したのは何と言っても乳井月影の絶大な力であると認めるのである。明治16年、月影翁は錦風流尺八本調子之譜を苦作したのが、錦風流の名が世に出た第一歩であった。原本は自分が尚、大切にしている。錦風流伝曲として下り葉、松風、三谷清攬、獅子、通里、流鈴慕、六段、虚空、上記曲のうち、六段は吉崎好道門人、弘前蘭庭院住職・芳樹和尚の伝うるもので芳樹和尚は弘前。田茂木町の人、幼にして仏門に入り、江戸に上がり、一月寺に入り、初代琴古門人、宮地一閑先生に就き尺八の修業をし、後に蘭庭院の住職になった。芳樹和尚は蘭庭院の庭に石碑を建て、吹きちらし、我はうき世の北南の句と愛用の一尺八寸管の形を彫り付けた。是は近頃、発見 されたのである。月影翁の明治初年より明治中頃までが錦風流の最も隆盛を極めた名人が輩出した。翁は後継者として、朝夕、熱心に教え込まれた人は、永野旭影師である。永野旭影師は現存者で、月影翁の楽風を最も完全に伝えている一人である。月影翁は明治28年、64歳で他界し、永野旭影師は明治35年に弘前を離れた為、当地の人の多くは師の竹韻を味わって居ないのが残念である。永野旭影師は、目下、東京市牛込区に在住し、後進の指導をして居る。自分も、永野旭影師、折登如月師を師とし多年、努力修業し、錦風流の全国的発展に努力しつつある。神如道氏、井上重美氏、其の他、在京竹界の有力者多数して、錦風流の発展に助力された。又、各流各地の大家に交際を求め錦風流の批評をこうた。即ち、東京の宮川如山、浦本浙潮(明暗)、川瀬順輔(琴古)、名古屋の加藤西園(西園流三代)、京都の小林紫山、谷北無竹、勝浦正山、浦山正義、大阪の奥村夢山、熊本の津野田露月(明暗流)、以上は現代古典尺八の大家である。現代の竹界本曲家にして錦風流の名を知らぬ者はない迄に有名になっている。錦風流は武士的な豪壮な曲として唯一のものと言って禅らないのである。郷土の士人は宜しく、この曲を研究し名曲を永世に伝統せしめられんことを希望する次第である。

乳井建道(建蔵)師のこと(5)

小野寺源吉師が、弘前の錦風流尺八の吹き手に伝えた鶴の巣籠。乳井建道師は、この曲の研究に大変時間をかけて、玉音の名人と言われるそうになりました。乳井建道師の形見の品にあった、たくさんの楽譜の一部です。この楽譜は、乳井建道師の師匠であった折登如月師の楽譜mそのままで、現在、吹かれています鶴の巣籠の子別れの手法はありません。今では、布袋軒伝、鶴の巣籠などと称して、あたかも伝承されているかのように解説され、また演奏されていますが、元祖・小野寺源吉師が住んでいました宮城県金成村の田圃に住んでいた素朴な鶴が、名人の手で、関西の晴れやかな地に連れていかれ、きれいな着物を着せられ、厚化粧をした鶴に変身してしまいました。これでは、元祖・小野寺源吉師が見ても、あなたはどこの鶴でしょうかと尋ねるでしょう。乳井建道師までは、錦風流別伝の曲でしたが、弟子の琴古流尺八の名手・廣澤静輝師に伝わってからは、使用する尺八も変わり、別伝・琴古流鶴の巣籠と称した方がいいかも知れません。現代の尺八家は、伝承という言葉を軽々しく使用して、舞台芸術の曲とするところに疑問をいだく次第です。今回、紹介しました乳井建道師の遺稿に書かれていますように、古典本曲は舞台で晴れやかに演奏すべきものでなくて、己の修業のために、稽古を積み重ねることが忘れられているのではないでしょうか。
乳井建道師直筆の鶴の巣籠の譜(クリックで画像を拡大)
鶴の巣籠譜2枚目(クリックで画像を拡大)
鶴の巣籠譜3枚目(クリックで画像を拡大)

乳井建道(建蔵)師のこと(6)

井建道師の形見の品の中に、この記事が残されていました。演奏された年月日は不明です。松風の曲は、本手を乳井建道師が、曙調子を錦風流二代目宗家・永野旭影師が演奏しています。この頃に、乳井建道師は、永野旭影師から師範免状をもらったのでしょうか。また、獅子の曲は乳井建道師が、最初の師匠であった折登如月師と合奏をしています。本調子を乳井建道師が、曙調子を折登如月師が演奏しています。乳井建道師は、最初は錦風流尺八・町方の手法の名手・折登如月師について学び、後に東京に出てからは、二代目宗家・永野旭影師について侍片の手法を学び師範免状をもらいました。乳井建道師は、名手であったので、町方の手法、侍方の手法を使い分けすることができたのでしょう。現代では、錦風流尺八本曲を演奏される方が、たくさんいますが、自分がどの手法で吹いているのか、その違いがわかるでしょうか。
新聞記事(その1)(クリックで画像を拡大)
新聞記事(その2)(クリックで画像を拡大)

乳井建道(建蔵)師のこと(7)

故・乳井建道師が所蔵していました尺八雑記の記事

乳井建道師が錦風流尺八の師匠・折登清助(如月)師の筆記より之を転写す。時に昭和6年3月8日と書かれた文章の紹介

瀧落ノ曲   源雲海

瀧落シノ曲ハ春ハ勝絶、夏ハ鳧鐘、秋ハ神仙、冬ハ壱越ニ吹ク曲デアリマシテ一名、産安トモ云ヒ、妊婦ノ方ニ向ツテ吹ク時ハ安産スルト云ヒ伝ヘラレテ、古来色々ノ芽出度イ儀式ニ用ヒルシ、明暗流デハ奥伝ノ曲デ有リマシテ、一ノ高音ハ勝絶調爽鐘調、二ノ高音ハ盤渉調ノ爽調ニ吹キ、又 一ノ高音ハ男瀧、ニノ瀧ハ女瀧デス。ソノ壮巌ナル周囲ノ情緒ト谷嵐風韻洞抜ノ響キ、男瀧、女瀧ノ表情ハ仲々ムナシキモノテ音韻ハ口傳トナッテ居リマス。

巣籠と題して、鶴の生態を細かく書かれた記事があります。
その一部に神保政ノ助師について書かれた記事の紹介。

神保氏ノ巣籠ハ一名三谷巣籠トモ申シマシテ胡弓ト仝ジ手モアリマセンシ外曲式ニ、拍子ヅイテモオリマセン、眞ニ古典ノ本曲ラシイモノデアリマス。人、五常ノ道ヲ吹キナス曲デアリマスカラ人物、技量共備ワッタ人デナケレバ吹キ得ナイノダソウデアリマス。コノ曲体ヲ申しマスト 一、竹調 二、三谷(サンヤ) 三、 三十六ユスリ 四、巣籠(タバ音アリ) 五、
子別レ(タバ音アリ) 六、鉢返シ 七、大結ビノ順序ニナッテ居リマス。竹調ハ竹ノ調子、心ノ調子、息ノ調子等ヲ調ベルノデアリマス。

(鶴の巣籠の情景と奏法の解説の文章は略)

神保政治ノ助氏ハ福島県三春ノ産デ、旧姓ヲ藤村ト申シ神保方ヘ養子ニ入ツタ方デス。相当ナ士族ニ生マレ刀剣ノ研ギ師 ヲ本職トシ隻眼デアリマシテ、上品ナ立派ナ人物デ一時、越後下田ノ明暗寺の門下トナッタ。同地横越村ニ居シ虚無僧行脚ヲシテ居ラレマシタガ、明治十四年竹友、加藤了斎ト共ニ仙台ニ来タリ後、福島地方転住シテ大正七年六十八斎デ鎌田村ニ永眠致シマシタ。一尺九寸ノ愛管ヲ携ヘテ眞ニ風月ヲ友トシ「吹ケハ行キ吹カネハ行カヌ虚無僧ノ風マカセシ為コソ安ケレ」ノ境涯ヲ送ツタ方デアリマス。同氏ノ開イタ竹ニハ○ニ正ノ銘ガ入レテアリマス。

乳井建道(建蔵)師のこと(8)

故・乳井建道師が所蔵していました祖父で初代錦風流尺八宗家・乳井月影師が明治16年に著した錦風流尺八本調子之譜より一閑流六段の楽譜。乳井月影師の弟子で津軽三名人と言われました、二代目宗家・永野旭影師と青森で多くの弟子を育てました津島孤松師の系統では、この曲はコミを入れませんが、町方の手法で知られました折登如月師の系統では、この曲にコミを入れて吹きます。

月影翁の註によれば、「一閑流六段、但五段、六段傳なし、是の六段は元来、蘭庭院住職芳樹和尚の手なり、伴先生種々の曲を吹き調べたれども六段は知らざりし、依って先生芳樹に就き伝習を乞えども固く諾せず、依って先生夜深彼の院裏に潜み遂に六段を聞き吹き調べし事を得しとぞ、口伝あり、近代、野宮氏東京茶川徳交の譜に拠り五段六段を私作し其声調頗る是迄の一二三四段に類す、また山上氏近代筝を学び尺八合奏六段を発明する所あり依って二氏の精密なる譜を著述あらん事を希望す。芳樹和尚は、一閑先生の弟子なりとぞ、依って一閑先生と右に拳くる者なり、一閑先生の事は尺八唱歌一枝方と云書に見えたり一閑先生の二代目琴古先生は是又名人にて遂に一流の元祖となる、今の東京尺八指南荒木古童は琴古の末流なり。初段より二段に渉り三段より四段に渉り次第に間をせまむべき口伝あり。
一閑流六段譜(その1)(クリックで画像を拡大)
一閑流六段譜(その2)(クリックで画像を拡大)
一閑流六段譜(その3)(クリックで画像を拡大)
一閑流六段譜(その4)(クリックで画像を拡大)

乳井建道(建蔵)師のこと(9)

一閑流六段の続き。
乳井建道師の遺稿にありますように、錦風流尺八の譜本は体の骨の部分のみが書かれているのであって、肉の部分は師匠について指使いを学ばなければ吹けません。三曲の世界と違う太い地無し尺八を使用し、腹の力で息を吹き込む独特の奏法、さらに津軽弁の味が加わることにより、錦風流尺八本曲の味わいが、できあがったのではないでしょうか。 青森で活躍されました、津島孤松師は、この一閑流六段も五調子(本調子、曙調子、雲井調子、夕暮調子、大極調子)を作譜して、弟子たちに指導されました。錦風流三代目宗家・成田松影師から岡本竹外氏に継承されました一閑流六段の楽譜の一部も紹介します。
一閑流六段譜(その5)(クリックで画像を拡大)
宗家伝承の六段譜(クリックで画像を拡大)

長堀孤雪氏を偲ぶ

堀孤雪氏は平成22年10月7日に91歳で亡くなりました。生前に長堀氏宅を訪問して聞いたことを紹介します。長堀孤雪(榮次)氏は、函館在住の錦風流尺八・阿部孤鶴師に錦風流本曲を習う為に、訪問した時、阿部先生が、今は三曲が盛んな時、そんな時に本曲を習いたいとはと、笑われたとのこと。それでもとお願いをしたら入門を許されたそうです。それからは、東京から函館の阿部先生宅まで何度も稽古に通ったとのこと。昭和54年に、やっと免許皆伝を許されたので、東京の木場で看板板を購入して函館の阿部先生宅に持参したら、その場で阿部先生が書いてくれたとのことです。また、錦風流尺八の奏法について阿部先生から注意されたことを、長堀さんが語りました。特にコミ息については、吹き込んだ息の残りを、寺の鐘の余韻のように、あるいは水面の波紋が自然に小さくなり消えていくようにと。現代、錦風流本曲を演奏される方々のコミ息を聞くと、首振りで代用したり、あるいは機関車のように、同じ強さのコミ息の連続するのが多くみられます。呼吸法もなく、現代管の地付き管で、口先の細工で物まねをしているようですが、やはり基本がなくては、本物には近づけません。今年、青森県の県技芸保持者に認定されました、地元、弘前市の藤田竹心氏の錦風流は、津軽弁できれいなコミを吹かれます。
写真の1は、長堀孤雪氏の師匠・函館在住の阿部孤鶴師の写真です。この写真は、津島孤松師のアルバムにありました。昭和6年12月19日撮影されたものです。その下の写真は、長堀孤雪氏の写真です。長堀さん宅を訪問した時のものです。下段の2枚の写真は、長堀さんが函館に持参して阿部孤鶴先生に書いてもらったものです。 
阿部孤鶴師(クリックで画像を拡大)
長堀孤雪氏(クリックで画像を拡大)
長堀孤雪氏の看板(クリックで画像を拡大)
長堀孤雪氏の看板(クリックで画像を拡大)

青森県無形文化財技芸指定(錦風流尺八)の追加認定について

青森県弘前市に伝わる錦風流尺八が昭和56年、故・内山嶺月師、現在、弘前学院大学教授であります笹森建英氏の尽力により県技芸として認定されました。昭和56年9月23日、地元弘前市で活躍していました、野宮玉洗師の系統を伝承する後藤清蔵(貫風)氏、津島孤松師の系統を伝承する、松岡幸一郎(錦堂)氏、弟の松岡俊二郎(竹風)氏、折登如月師の系統を伝承する、松山定之助(松月)氏の4名が県技芸に認定されました。その後、平成9年に後藤清蔵門下の須藤任子さんが、平成18年には松岡竹風氏の門下、山田史生氏が県技芸に追加認定されました。松山定之助氏は平成元年に亡くなり、また後藤清蔵氏は平成7年4月に亡くなり、平成20年3月には、松岡竹風氏が12月には松岡錦堂氏が亡くなりました。地元、弘前から錦風流尺八の伝承が消えてしまうような状況の中で、津軽三名人の一人、津島孤松師の甥っ子で、松岡錦堂氏の弟子、津島六奥氏がこの道の長老として、後藤清蔵門下の平尾雄三氏、藤田竹心氏の二人を教育委員会に県技芸に推薦をし、県に申請されました。平成22年11月20日、地元、弘前市内で青森県の審査が行われ、平成23年3月に、この2名が追加認定をされました。藤田竹心氏は、その後、錦風流伝承会を立ち上げ、会長に就任、顧問には、長老の津島六奥氏、相談役には、前川耕月が就任し、今日まで活動を続けています。 

錦風流外伝・鶴の巣籠の名手:廣澤静輝師のこと

小野寺源吉師が明治20年頃に、弘前の錦風流尺八家に伝えた鶴の巣籠は、弘前の折登如月師から弟子の乳井建道師に伝わり、それが大阪の琴古流尺八家、廣澤静輝に伝わり有名になりました。骨の部分に、肉がついて舞台用の名曲になりました。その廣澤静輝師について紹介したいと思います。昭和2年11月に発行されました「現代音楽大鑑」の記事より

尺八 琴古流

静輝  廣澤富治郎  大阪市南区日本橋2の42

竹友社の門人として大阪に於ける重鎮であり松楓流生花の家元として天才畫家として著しく知られている君は、明治27年10月21日大阪市住吉区今林町に於いて生を享けたのである。幼児より尺八をはじめ各種の鳴り物に多趣味を有していたが、幸いにして君が17歳の春、故・宮内直方師に就いて尺八の研究を始めて後、君の楽才は忽ちにして世人の認める所となり大正3年には竹聲会を門中より組織して大阪に尺八教授所を開設し斯界の為に畫くす所多く、門弟の養成に努めていたが、其盛大なる十周年記念大演奏会を大阪南地演舞場に開催し多大の好評を受け、それより俄かに世人に知られ尺八界に重きをなすに至ったのである。前竹友社が解散せられてから現在の川瀬順輔師により竹友社が率いられるに至って君は川瀬門人として今日の如く大阪に於ける斯界の一角に立つようになった。君の芸術的天才と不断の努力とは将来、琴古流の為に偉大なる貢献をなすもので、今後に大いなる期待が各方面から掛けられているわけである。君は又、生花は花の村と称せらるる程で、14歳の時未生流を習い、1ケ年半にして遠山流も習い、更に眞生流、遠州流、池之坊等にそれぞれ研究を重ね、中でも遠州流は其の奥儀を極め師範の免許状を有し、池之坊に於いても奥儀に達し、家元より静輝の雅号を興へられ旭兤斎の冠称までも許されている程であり、眞生流も同様にし大正元年より其家元を組織している。之によって見るも生花の天才と称すべく大正10年には各師匠の援助を受け松楓流なる一流を起こし家元となった。其外書を良くし写真の術に長じ多芸多能なる人である。
以上


廣澤静輝師の師匠であります乳井建道師は昭和20年に57歳で亡くなり、また廣澤静輝師は昭和24年に56歳で病のために亡くなっています。

写真は、乳井月影師の錦風流楽譜を廣澤静輝師が、書かれたものです。この楽譜は、従来の錦風流楽譜と違い、奏法のための手法が書きこまれています。(侍方の奏法です)
本調子の調(クリックで画像を拡大)
下り葉(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その1)(2010.10.9)

平成22年10月、錦風流尺八歴史調査のために弘前市を訪問しました。津島孤松師のアルバムの中の写真、上段の写真は、津島孤松師の門下、前列右から、岡本不二男氏、その隣が山谷義雄氏、この写真は明治41年1月30日撮影。今回の旅では、岡本不二男氏遺品から愛用の尺八を拝見できました。上から二枚目の写真は、前列中央が山谷義雄氏、後列左端が山谷義雄氏の実の弟、工藤虎雄氏。山谷義雄(孤山)氏は猿賀神社・胸肩神社の宮司であり、警察官であった。弟の工藤虎雄氏は弘前東照宮の宮司で尺八の名手であった。上から3枚目の写真は山谷義雄(孤山)氏が愛用していた尺八。上から折登如月作地無し2尺管(中継ぎ)、松山松月作地無し一尺八寸管、作者不明地無し一尺六寸管、作者不明地付き一尺九寸管、作者不明地付き二尺二寸管。
津島孤松師のアルバム(クリックで画像を拡大)
山谷家のアルバムより(クリックで画像を拡大)
山谷義雄氏の遺品(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その2)(2010.10.9)

平成22年10月9日、弘前市胸肩神社社務所にて宮司の山谷敬氏から祖父・山谷義雄氏が使用していました津島孤松師直筆の錦風流五調子の楽譜を拝見しました。楽譜は乙音は朱で甲音は墨で書かれています。大正8年の旧暦9月に皆伝を受けています。
津島孤松師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
津島孤松師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
津島孤松師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その3)(2010.10.9)

上段の写真は、錦風流尺八初代宗家の乳井月影師が明治16年に書き残した錦風流本調子之譜を昭和6年に孫の乳井建道師がガリ版で再版したもので、表紙の裏に、昭和6年11月18日、乳井建道師から山谷孤山師に贈呈と記載がある。中段と下段の写真は、10月10日に弘前市田町八幡宮通りにあります神道の墓地を訪問、八幡宮側の墓地には、山谷義雄師の墓があり、昭和32年10月20日に義雄氏は亡くなっています。神道なので墓石はみな、奥津城と刻まれています。
乳井建道師が再版したもの(クリックで画像を拡大)
田町八幡宮通りの墓地(クリックで画像を拡大)
田町八幡宮通りの墓地(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その3)(2010.10.10)

錦風流尺八三名人の一人、津島孤松師の弟子であった岡本不二男氏宅を訪問し、三男の美登利氏に会うことが出来ました。美登利氏から、不二男氏の形見である地無し2尺管を拝見することができました。美登利の話では、後藤清蔵氏が、岡本先生はいますかと、よく訪ねてきたとのことです。上段の写真は美登利氏、中段の写真は藤田竹心氏が不二男氏が愛用しました太い2尺管を吹いているところ。下段の写真は、私がこの太い2尺管を試し吹きしているところです。今まで、弘前で手にした尺八では最も太いものです。現代管のように口先で吹いて鳴らせるものでなく、丹田の力でないと思うように鳴りません。 
岡本美登利氏と(クリックで画像を拡大)
藤田竹心氏が試し吹き(クリックで画像を拡大)
私も試し吹き(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その4)(2010.10.10)

岡本不二男氏が愛用していた尺八、地無し2尺管(中継ぎ)です。美登利氏の話では、形見の尺八は3本あったとのことですが兄弟で分けたとのこと。歌口側の内径が25mmで管尻側も25mmです。製作者の銘はありませんが、おそらく折登如月師の作でしょうか。下段の写真は、禅林街にあります曹洞宗・安盛寺で、岡本家の菩提寺です。この向かい側には、師匠の津島孤松師のお墓がある正光寺です。
岡本不二男氏愛用の尺八(クリックで画像を拡大)
岡本不二男氏愛用の尺八(クリックで画像を拡大)
禅林街・安盛寺(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その5)(2010.10.10)

神職であった長利家の奥津城(神道の墓)が田町八幡宮通りの墓地にあります。長利仲聴の業績をたたえる石碑。長利仲聴は、文化8年の生まれ、明治36年に没した。墓地の向かい側にあります熊野奥照神社や岩木山神社の宮司を務めたが、国学者であり旧派の歌人。津軽一円の歌会を指導し、多くの人々に影響を与えた。錦風流尺八本調子之譜には、長利仲聴が、尺八の歴史について解説をしています。
田町八幡宮通りになる長利家の墓(クリックで画像を拡大)
長利仲聴の功績が書かれた石碑(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八歴史調査(その6)(2010.10.10)

今年9月にヤフオクで入手しました如月作の地無し一尺八寸管です。今回の旅で郷里の弘前に持参し、乳井月影師、津島孤松師の墓前で献奏しました。歌口側の内径が23mm、管尻側の内径が20mmです。太い尺八なので腹で押しながら鳴らすことが必要です。津軽弁で吹く錦風流には欠かせない道具です。
如月作一尺八寸延管(クリックで画像を拡大)
如月の焼き印(クリックで画像を拡大)

錦風流五調子の楽譜(阿部孤鶴師筆)

北海道函館市に住んでいました阿部孤鶴師から、皆伝をうけた長堀孤雪氏が昭和51年に拝領した楽譜です。長堀さんが、亡くなる20日前に、私を呼んで、この楽譜を大切にしてほしいと言われ、預かったのもです。
五調子の5冊(クリックで画像を拡大)
二色で書かれた楽譜(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八・工藤稜風氏のこと(その1)

琴古流尺八の名手として青森で活躍していました工藤稜風氏は、錦風流尺八は津島孤松師から、皆伝をうけています。上段の写真は大正15年5月5日、青森での三曲演奏会に記念写真です。工藤稜風氏は向かって右から3人目です。中段の写真は、大正14年、錦風流五調子と鶴の巣籠を津島孤松師から相伝しています。その後、昭和6年12月に函館の阿部孤鶴師が、昭和7年8月に青森の瀧谷孤瀧師が皆伝をうけています。下段は、工藤稜風氏が所蔵していた楽譜です・
青森での三曲会(クリックで画像を拡大)
津島孤松師の免状(クリックで画像を拡大)
工藤稜風氏の譜(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八・工藤稜風氏のこと(その2)

工藤稜風氏の楽譜。上段から夕暮調子、本調子、曙調子、雲井調子です。
夕暮調子(クリックで画像を拡大)
本調子(クリックで画像を拡大)
曙調子(クリックで画像を拡大)
雲井調子(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八・工藤稜風氏のこと(その3)

写真は大極調子の楽譜。津島孤松師は錦風流尺八の楽譜は、乙音は朱で甲音は墨で書いていました。津島家に残る楽譜は、現在、本調子の楽譜しか残っていません。錦風流尺八、乳井月影師門下、津軽三名人といわれた永野旭影師、津島孤松師、折登如月師、その中で、裏調子を吹いていたのは、津島孤松師と折登如月師です。折登如月師は、古山雄蔵師から学んだ曙調子と雲井調子があります。津島孤松師は、自分で五調子を作譜したようで、この系統だけに五調子が存在しますが、残念ながら現在、この系統の人で五調子を吹く人はいません。また、津島孤松師や、多数の門下の方々は、折登如月作の錦風流尺八を吹いていました。最初の頃の尺八は延べの地無し管が多かった
ようですが、昭和になると、地付き中継ぎの如月管が多く使用されていたようです。永野旭影師の系統では、宗家の引き継ぎ事項に、二尺管で吹くようにと書かれていました。現代管の地付き管で錦風流を吹いても、中に息が入らず、口先での奏法になってしまいます。 
大極調子の譜(クリックで画像を拡大)

津軽郁田流について(その1)

津軽郁田流箏曲の歴史 

天明か明和の頃、西暦1700年の後半、初代黒沢琴古、二代黒沢琴古が活躍 

していた時代に、曽呂都と称する旅の盲法師が弘前の亀甲町の酒店 三国屋

八右衛門方に来た。箏をもっているので弾かせてみると上手なので
娘のきよ

と、近所の官盲城象とに習わせ、城象は奥許に達した。
二年して曽呂都が

去ったあと、城象は城御代に、城御代は城千代に
伝えた。こうして弘前に広

まった。明治時代に入り、箏曲の名手、
金清兵衛則博の門下に竹内婦き子が

いた。根笹派錦風流の尺八家、山上
謙次郎(影琢)竹内婦き子の門下とな

り箏を学んだ。明治
17年から箏・尺八の合奏を始めたようだ。明治24年竹

内婦き子は錦風流の乳井
永助(月影)、福士豊(影季)、山上謙次郎(影琢

に委託して、糸の
名と間合を兼ね備えた生田流の筝譜の製作を依頼したが

翌・明治
25年に竹内婦き子は70歳くらいで亡くなってしまった。当時津軽

郁田流をする者に、かってのように学識ある男子がいなかった
からのよう

だ。錦風流の
3人に委託した楽譜は見つかっていないので恐らく完成され

ず、あるいは着手さえされずに終わったのでは
ないだろうか。この頃、錦風

流の乳井永助、福士豊、山上謙次郎は
宮城県金成村に住んでいた、小野寺源

吉が弘前に伝えた巣籠の研究に
没頭していて、筝曲の譜面作成どころではな

かったのではないだろうか。

  

 

(参考文献:岸辺成雄・笹森建英著・津軽筝曲郁田流の研究・歴史篇)




H.21.7.2  作成



津軽郁田流について(その2)

写真は、津島孤松師が所蔵されていたもので、津島六奥氏より提供を受けたものです。明治時代から大正時代にかけて、青森では盛んに三曲合奏が行われていたことがわかります。津島孤松師も、錦風流本曲だけでなく、津軽郁太流筝曲や山田流筝曲の社中と合奏をしていました。 

 

 

小野多み賀社中演奏会(クリックデ画像を拡大)
小野先生の弾き初め(クリックデ画像を拡大)
大正13年坂井先生の弾き初め(クリックデ画像を拡大)
大正13年9月對馬貞子社中弾奏(クリックデ画像を拡大)

工藤兵一氏が愛用した錦風流地無し2尺管

黒石市在住の民謡尺八家・佐藤新子さんが所蔵しています、工藤兵一氏が愛用していました錦風流地無し延べ2尺管を拝見することができました。作者の銘はありませんが、よく吹き込まれた尺八です。
表面(クリックで画像を拡大)
裏面(クリックで画像を拡大)
管尻(クリックで画像を拡大)
歌口部分(クリックで画像を拡大)

津島孤松師の写真及び直筆楽譜(2009.7.30)

平成21年7月30日、弘前を訪問し、錦風流3名人の一人、青森市内で活躍されました津島孤松師の甥っ子、津島六奥氏に会うことができました。その席で、津島孤松師の形見のアルバムや直筆の楽譜を拝見することができました。写真は津島孤松師の自宅での稽古風景、また津島孤松師の書かれた 錦風流本調子の楽譜です。津島孤松師は、三曲合奏も盛んに活動された方で、生田流、山田流の三曲の楽譜も拝見することができました。津島孤松師(賢四郎)は、昭和7年10月4日に胃がんで亡くなりました。一人娘の津島千恵子さんは、大正7年6月3日に病気で18歳で亡くなっています。津島孤松師のお墓は青森市内にありましたが、その後、お参りする人もいなくなったので、弘前の津島家歴代の墓地(禅林街・正光寺)に移されたそうです。
中央が津島孤松師(クリックで画像を拡大)
津島孤松師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
津島孤松師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)
津島孤松師筆の楽譜(クリックで画像を拡大)

錦風流の祖・伴勇蔵建之師の一代記について(2015.11.28)

錦風流尺八の祖・伴勇蔵建之師は、明治4年までは弘前市在府町に住んでいましたが、その後、弘前郊外の田舎館村に移り住んで、明治8年2月21日に78歳で亡くなっています。伴家の墓は田舎館村にありましたが、後に末裔の方が、弘前市新町にあります浄土宗・誓願寺に移しました。今の菩提寺であります誓願寺の小坂住職から、今年の10月に伴勇蔵建之一代記なる書き物が見つかったと送っていただきました。写真は伴勇蔵一代記です。全部で20ページのものですが、残念ながら尺八にかかわる記事は見つかりませんでした。
伴勇蔵一代記(クリックで画像を拡大)
伴勇蔵一代記(クリックで画像を拡大)
伴勇蔵一代記(クリックで画像を拡大)

弘藩明治一統誌(人名録全)より

弘藩明治一統誌第十三巻・人名録全(内藤官八郎著)の中に、五音師ノ部、尺八 士族・伴勇蔵、僧・耕春院哲長と書かれています。錦風流尺八の祖、伴勇蔵と共に尺八として耕春院哲長なる人物は果たして記録に残るような尺八吹きであったのか疑問を抱きます。また、茶師立花師ノ部にも、故御用人役 毛内有右衛門と並び、禅宗・耕春院喜山なる僧の名前があります。耕春院とは、弘前禅林街・曹洞宗33ケ寺の本寺として長勝寺と耕春院がありますが、大正時代に耕春院は宗徳寺に名前が変わりました。歴代住職に耕春院哲長や耕春院喜山なる人物がいたかどうか、今年10月12日、宗徳寺を訪問し、黒滝住職に調べていただきましたが、残念ながら歴代住職には、この名前が記載されていませんでした。江戸時代には耕春院は、かなりの僧侶がいたようなので、このような尺八や茶師の腕も優れた人物がいたようです。また、五音師ノ部には笛のところに士族・佐田大之丞の名前が記載されています。佐田大之丞は、錦風流初代宗家・乳井月影師の実の兄であり、尺八と笛の名手でした。佐田大之丞(さだ・だいのじょう)幕末の津軽藩士。明治元年(1866)11月、箱館から逃れてきた清水谷公考(きんなる)箱館府知事警護のため銃隊長として浪岡へ出張した。(津軽承昭公伝 津軽歴代記類参照)
人名録全(クリックで画像を拡大)
五音師ノ部(クリックで画像を拡大)
明治2年弘前絵図・耕春院は赤枠(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八外伝・小野寺源吉伝鶴の巣籠について(2015.11.28)(その1)

弘前市在住の錦風流伝承会会員の高橋濤月氏が、市内の古書店で見つけた錦風流本曲譜の表紙裏には、伴勇蔵先生の傳習を記す。嘉永三年四月十三日圓明寺光善院僕等三人申合の上伴先生の門弟となり傳習氏ゐる所の一二三の曲、本調子の調べ曲は左の如し。こう書かれています。この譜本の裏には、蔵跡庵・紫竹と名前が書かれています。また、この譜の中にあります小野寺源吉伝鶴の巣籠の譜の一部を紹介します。
鶴の巣籠の一曲(仙台)(クリックで画像を拡大)
同曲の別手(仙䑓)(クリックで画像を拡大)
大竹古習氏の夕暮の曲もある(クリックで画像を拡大)
鶴の巣籠の曲(壱段・小野寺氏)(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八外伝・小野寺源吉伝鶴の巣籠について(2015.11.28)(その2)

小野寺源吉が弘前の錦風流尺八家に伝えました鶴の巣籠は、その後、弘前の伝承者が、繰り返しなどを省略した校正巣籠が地元に残りました。その楽譜を元に、習う人が次々と書き写したものが、あちこちに残っています。この楽譜は、折登如月師の系統にだけ伝わっています。 
鶴の巣籠の曲(弐段・小野寺氏)(クリックで画像を拡大)
第三校正巣籠(但吹返しなし)(クリックで画像を拡大)

弘前に錦風流を伝えたと言われています吉崎八弥好道の家系について

弘前藩第九代藩主寧親公の命により文化12年(1815)に弘前藩士・吉崎八弥好道は一月寺に入門し、当時一月寺にいました根笹派出身の栗原栄之助(竹号錦風)に師事し、3年後、文政元年7月に弘前に戻りました。
ここに吉崎家の系図(吉崎家14代当主・吉崎一弘氏より)を掲載します。

先祖(半兵衛)→二代(作兵衛)→三代(権右衛門)→四代(新六・好勝)→

五代(権六・好里)→六代(権右衛門・好章)→七代(勇八・好殷)→八代

(権六)→九代(八弥・好道)→十代(喜作)→十一代(勇八)→十二代

(寅之丞)→十三代(操)→十四代(一弘)(寅之丞の長女・藤子の養子)

また吉崎一弘氏の調査されました吉崎家のことを、ここに掲載します。

吉崎家先祖吉崎半兵衛本国本所不伝承候、信牧公代銭七拾目、壱人口、御徒
被召出、其外不伝承候、二代作兵衛信義公代御徒被召出、慶安三年四月十三日新知高新田百石内真部御山奉行、三代権右衛門馬廻、四代新六好勝(木村茂左衛門二男)御小姓迄、五代権六好里寛保二年五月二十七日深浦奉行、六代権右衛門好章御目付役迄、七代勇八
好殷(乗田忠左衛門三男)寛政二年六月三日長柄奉行格御小姓組之頭、同六年七月七日俵子三十俵勤料、物頭格是迄之通、同七年正月十一日弐拾石後加増、同十二年七月朔日御持鑓奉行百三十石、御薬知御小姓組之頭是迄之通、同三年五月廿二日死、八代権六好章御錠口役御小納戸兼、九代八弥好道文政五年正月廿八日御近習小姓御納戸兼、
同六年八月廿三日不調法有之御留守居組役下、天保四年九月十七日深浦奉行ヨリ御使番同六年二月朔日死、十代喜作(天保六年七月十五日)跡式百五十石(嘉永元年十二月十四日死)、十一代勇八(同年二年三月朔日跡式百五十石)    (旧家子孫書上士族由緒  全)



吉崎八弥好道と吉崎家のこと

吉崎家14代当吉崎一弘氏から提供を受けた資料より。


吉崎権六 百五十石 文化三寅年十月廿七日病死。 同年十二月廿八日家督                  無相違倅貞蔵江被下置、御手廻二番組被候付

吉崎貞蔵 百五十石(御手廻与)文化四卯年四月朔日八弥与名改願之通同                    十二年亥年六月廿六日若殿様御附御近習番被仰付、同年十月廿
               一日若殿様小納戸役被仰付候

吉崎八弥 百五十石(御小姓壱 若殿様近習番与)御小納戸役、御附御小                    納戸役江。文政五午年閏正月廿八日御附御近習小姓被仰付、御
               小納戸役是迄之通被仰付候。文政五年午年二月二日奥通被仰付、                同六未年八月二十三日於江戸表言行不宣候ニ付、御留守居組江
               御役下被仰付二番組江入。文政十亥年十一月十五日御手廻二番組
               被仰付候。文政十三年八月廿一日御馬廻三番組番頭被仰付候。
              天保四年巳年九月十七日深浦奉行被仰付。天保九子閏四月一日勤
              中三人扶持勤料下置候。天保五年十一月廿四日御馬廻三番頭与。
              天保六年二月朔日病死。(深浦奉行与)同年閏七月十五日跡式無
              相違伜喜作江被下置候、尤喜作御手廻壱番組被仰付候。

吉崎喜作 百五十石(御馬廻壱番組番頭被仰付候)御使番八弥跡





 

錦風流尺八・津島孤松師最後の弟子、瀧谷孤瀧師のこと

明治時代から青森市内で錦風流尺八家として活躍されました津島孤松師の最後の弟子、瀧谷孤瀧(治郎)師は、明治40年生まれで、昭和6年6月に津島孤松師に入門し、翌年の昭和7年8月に錦風流尺八本曲の五調子と外伝の鶴の巣籠を相伝しています。また、布袋軒鈴慕の曲は、仙台の岡崎明道師から学ばれました。古典尺八の研究家でありました故・高橋呂竹先生は、昭和30年代に青森市の瀧谷孤瀧師宅に録音機を持参して、錦風流尺八本曲の本調子や、岡崎明道伝の鈴慕を録音されました。残念ながら、五調子の録音をする前、昭和38年に瀧谷孤瀧師は 56歳で亡くなりました。現在、高橋呂竹先生がレコードにして残されました瀧谷孤瀧師の話や、演奏録音は貴重な資料になっています。弘前で錦風流尺八の県技芸保持者でした後藤清蔵氏は、瀧谷孤瀧師のところに、一度だけ稽古に出かけられたようです。また、津島孤松師の甥っ子で弘前在住の津島孤風(六奥)師86歳は、3回、瀧谷孤瀧師のところに稽古に通ったとのことです。瀧谷孤瀧師の写真は、津島孤松師のアルバムにあったものです。津島孤松師に入門した年、24歳の時の写真です。
 
昭和6年8月撮影・瀧谷孤瀧師(クリックで画像を拡大)

錦風流尺八の名人・津島孤松師と津軽郁田流筝曲

江戸時代に弘前に伝えられた筝曲(後の津軽郁田流)は明治時代には、弘前では古郡婦知子社中や、その弟子の小野貞子社中の頃は盛んに、演奏会が開催されていました。この写真は津島孤松師のアルバムにあったものです。津島孤松師は、三曲合奏の方でも活躍された方で、写真を見る限り、たくさんの尺八の弟子がいたことがわかる貴重な資料です。下段の写真は、弘前市禅林街・曹洞宗33ケ寺の親寺で、代々の津軽藩主が眠る、長勝寺にあります蒼龍窟の額が背景に写っています。おそらく演奏会が長勝寺で開催されたのでしょう。 
津軽郁田流・小野貞子社中(クリックで画像を拡大)
津軽郁田流・古郡婦知子社中(クリックで画像を拡大)
津軽郁田流・古郡婦知子社中(クリックで画像を拡大)

佐藤中隠著・八方往来の尺八交遊録に登場する錦風流尺八

青森県出身の佐藤中隠氏は人生の途中で、書道や尺八の世界で出会った人々との交友録を八方往来という随想集にして出版されました。その中に尺八交遊録という記事があります。佐藤中隠氏は弘前で琴古流尺八を習っているときに、師匠の家に突然に、地元の錦風流尺八家のS氏が登場する場面があります。
竹童師匠は少年の頃から吹いていたという。ネプタの笛を吹いたのがきっかけだという。よく神如道を口にする。如道は今東京で嘖さくたる大家だ。世界中股にかけ吹き歩いている。NHKのラジオからも常に放送している。弘前出身だ。師匠は甞て友達として稽古したという。決して腕ではヒケを取らぬと自負する。ただ世渡りが下手で、今こうして田舎にいて、一介の雑貨屋のおやじとしてうずもれている。既に名声に対する野望はない。ただ興が起きれば昼夜を分たず三昧境に入る。とはいうものの、酒飲むというか俄かに欝屈とした怒りが出て来るのであろうか、何やらわめき散らしながら、その揚句寝てしまうあ。そんな時に稽古をつけて貰えぬと思い帰ろうとする。しかし帰ってはいけないのだ。師匠の寝顔を見ながら吹いていなければならぬ。やがて酔眼朦朧の眼をこすり、無理に尺八をとろうとする。やはり音も乱れ、間もくずれ、到底聞かれたもんじゃない。それでも我われはじっとそれに合わせなくっちゃならない。ところがそんな様子で一時間くらい経つと、酔いも大分さめてくるのであろうか、突然微妙な音色に変ずる。 すると竹童師匠は立ち上がって、「おい、これが最高の尺八の音だ。よく覚えておくんだ。神如道も井上も川瀬も吉田晴風も誰もだせぬ」、さらりさらりと左右に体を揺れ動かしながら吹きまくる。まことにエスタシーの境地であった。この時だけは東京の有名な尺八の大家を乗り越えていると思えるのが、竹童師匠の安らぎなのであろうか。私は師匠のよく言う、川瀬とか吉田とか井上とかという名人の音は聞いたことがない。しかし師匠の音が決してそれらに劣ることはないと思った。そしてその絶妙な音色を早く自分の手に入れなければ!と我われもまた酔いどれの師匠に合わせるべく、立ち上がり激しく体を左右に振るわせながら吹きつけるのである。時たま闖入者が表われる。Sさんとか言って職業は表具師だが、ぶらりと我われの吹いている雑貨店の二階に風のように入ってきて、皆の様を見てやや軽蔑の表情を見せながら、もっともらしい尺八の講義をする。「尺八の音は川のせせらぎ、大木のざわめき、或は茅屋をたたく雨の模様など、凡そ森羅万象の音を含んでいるのだ。されば日常それらの自然の音を、心深く耳をすませて聞かねばならぬ。一管をとったらまさに人間と自然一体、ここに極意が生ずるのである。名人というのは、ひとたびハローと天地の音を奏でれば、自分の前からすべてが消え、音そのものになる。そしてそれを聞いているものは、奏する名人の姿は見えず、まさに竹だけが見える。今俺が一曲奏して聞かせる。もしかして俺の姿が消えて、竹だけ諸君の眼に写るかも知れぬ。よく眼を開いて、心して聞け。曲は錦風流鈴慕
!」まるで講釈師のように言いたいだけのことを言いながら、やおら、竹童師匠の側にある二尺の竹をとり、フーと吹きはじめる。錦風流というのは津軽独特の流派だ。普化宗の一派が津軽に流れて編み出したという。荘重な調べだ。Sさんもかなりやったらしくなかなか堂に入っている。ただその口にいう理論ほどは思われぬ。一曲終わってから、「どうだ、俺の体が消えてしまっただろう。この竹の中に体は確かに忽然として消えたはずだ」という。我われは爆笑。竹童師匠も「わしも懸命に眼をこすってS君の体が消えるかと期待したのだが、尺八は見えなくなるが、体はありありと見えるよ」と揶揄の眼差しで言った。手一杯論じ手一杯吹いてしまうとSさんは、我われの眼の前から去ってゆく。かことに変わった人だ。竹童先生に言わせると、Sは尺八に説明が多すぎる。体が消えるの、風がどうのあめがどうの、と、そりゃ理屈だ。ありゃ、講釈師になればいい。かなり罵倒気味である。それでも先生にとってはこよなく尺八仲間らしく、時どき、Sが来ないかなあと呟くことがある。(以上が尺八交遊録の一部です)

この中に登場する錦風流尺八家のS氏とは、弘前市の錦風流尺八伝承会の会長・藤田竹心氏の話によれば、錦風流尺八と、笛の名手であった須藤清氏の
ことだそうです。須藤清と藤田竹心氏の父親は友人であったとのこと。現在、藤田竹心氏宅には、須藤清が愛用された1尺9寸管の尺八が残っています。
 

岡本竹外先生の錦風流尺八レコードの解説記事より(2016.2.18)

根笹派錦風流について
錦風流尺八は普化禅宗十六派の一つ根笹派から出たもので、青森県弘前地方では大音笹流とか、御家流と言われていた。その起源については、いろいろの説があるけれども、弘前藩の武士によって代々吹き継がれて来た尺八曲である。錦風流を公式に呼称したのは明治十六年旧・弘前藩士乳井建朝(竹号月影)が門人の協力を得て、自分の師であった伴建之師、口伝の曲を整譜して「根笹派所伝錦風流尺八本調子之譜」を作ってからである。弘前藩第九代の藩主津軽寧親公は文化十二年(1815)に藩士、吉崎八弥好道に普化宗総本山の武蔵国小金にあった金龍山一月寺に伝承されている尺八曲の修業を命じた。好道は直ちに江戸に上がり、一月寺に入門して、当時一月寺にいた根笹派出身の栗原栄之助(竹号錦風)と一月寺院代の傑秀看我に師事し、根笹派、金先派、寄竹派、括惣派の伝承曲、数十曲を習得し文政元年(1818)帰藩し寧親公に逐一報告した。公は大いに喜ばれて、藩士にこれらの曲を伝習することを命ぜられた。御家流と呼ばれたのも、この辺の消息を物語るものである。根笹派は建長六年、紀州由良、興国寺開山法燈円明国師と同船にて来朝した宝伏居士を元祖とし相模国三崎にて宋和派と号して慈上寺を本寺とする派であったが、第九代の湛光風車和尚(禅宗として達磨大師より廿一代目)の時、上州箕輪城主、長野信濃守業政から関東乱派の総大将になるように招請され三崎より箕輪に移った。その時根笹派と改めたと言う。上州箕輪城を中心とする地方は戦国の治乱興亡により、長野氏、武田氏、滝川氏、北条氏、徳川氏と勢力圏の変動激しく、慈上寺も高崎城主井伊直正の代、慶長五年高崎に移った。慈上寺の親寺である大雲寺は井伊家の彦根転封と共に、移っていった。慈上寺は括惣派に転じて明治四年普化宗廃止まで高崎に存続したのである。弘前藩祖の津軽為信公は永禄十年(1567)その父、大浦為則の葬送の導師、津軽長勝寺八世、格翁舜逸禅師に参禅して、「普化鈴澤の話」を透過してその印可を得、用兵、戦術の神髄を把握したと言われ、この時以来、弘前藩と普化宗は緊密な関係を生じた。為信公は豊臣家滅亡後、徳川家康の麾下に参じ、本領を安堵され、上野国勢多郡のうちに二千石の領地を加増され、合計四万七千石を領した。弘前藩二代の信枚公は慶長十五年弘前城を築いて赤石城より移り住し、徳川家康の養女を娶った。記録によれば元和七年(1621)栗原泰藝が弘前藩に召預けとなっている。弘前藩の上州の所領の勢多郡には根笹派に属する普化寺が、二ケ寺もあり、(理光寺及び光林寺)、吉崎好道の師、栗原錦風も一月寺院代傑秀看我も共に根笹派出身で、錦風は泰藝の末裔と考えられる。弘前藩に根笹派が伝承されたのは上州の根笹派寺院との交流によるものであるが、弘前藩の武士の尺八として気魂に充ちたコミ息とチギリ(継色)と云われる独特の奏法を確立したのは津軽地方の傑れた音楽的素地に由来するものである。錦風流の流名起源には二説があり、その一つは伴建之師がその師の栗原錦風伝の曲を集成して師の竹号錦風をとって命名したという説と、伴師の後継者であった乳井建朝が元治元年九月九日の名月の夜、京都にて近衛家警固の任を帯びて上洛中、関白近衛忠煕公公の需めによって「松風」の曲を吹奏したところ、公の感銘一方ならず、吹きならす竹の調べもおのづから、澄み渡りたる夜半の月影と詠ぜられ、色紙と「月影」と云う竹号と大和錦の袋に入れた三日月銘の尺八を賜った。これを記念して大和錦の錦と松風の風をとり栗原錦風師の竹号を参酌して錦風流と名付けたという説であり、後者の説が当を得ているように思われる。乳井月影師を錦風流の初代として、二代目は永野雄次郎師(旭影)、三代目は私の師、成田清衛師(松影)、四代目は琴古流江雲会宗家で同じく津軽出身の井上重志師(照影)である。錦風流では尺八は地漆を用いない二尺管を基準とし、本調子の他、曙調子、大極調子、夕暮調子、及び雲井調子の四調子がある。これらの調子は楽理的には基音に対し、完全四度、長二度、短七度、完全五度の協和音程の四調子で吹くもので、完全五度と長二度、完全四度と短七度は共に協和音程となるので、三種の譜によって尺八の長さを変える事によって五調子を吹き分けるのである。
注・原文は 津軽藩となっていますが、この記載の文章では、正式名称の弘前藩にしました。