後藤桃水師50回忌法要に参加して
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後藤桃水師50回忌法要に参加して(その1)2009.8.2

後藤桃水師の50回忌法要に参加して
後藤桃水師は虚無僧寺布袋軒の虚無僧・長谷川東学に入門して産安の曲を学びましたが、鈴慕は長谷川東学が亡くなったので、その弟子、小梨錦水師から学びました。また、桃水回顧談によれば25歳の時に普化宗の掟に従い虚無僧になって全国を托鉢修行した。この旅で、すぐれた郷土の歌を知り、拾い上げた。私はこれを世間に広めようと全国大会を思い立った。しかし「百姓唄」では宣伝効果がないというので名前で頭をひねった。「民謡」「土地唄」など候補にのぼったが、ぴったりしない。そのころ、神田猿楽町に道場をもっていたが、たまたま裏庭で「ミンヨー、ミンヨー」と大セミが鳴き、私はとっさに「民謡」はどうだといいだし、みんなも「妙案、妙案」でたちまち衆議一致、私が民謡の名付け親になったのですが、もとはふとした思いつきだったのです。こうして昭和24年11月3日、後藤桃水の自宅前で民謡碑の除幕式が行われました。今回、後藤桃水師のことを、直門の明暗導主会・高橋呂竹先生から何度もお聞きしていました。石巻の後藤桃水記念館のことを、石巻在住の竹友、林さんにお願いして調査してもらいました。その報告によれば、桃水記念館は無住で、塩竈に事務局の藤岡さんがいるので、こちらに聞いてほしいとのことでした。早速、藤岡さんに電話をしたら、8月2日に後藤桃水50回忌法要を開催するとのこと。高橋呂竹先生に、このことを伝えると、自分は行けそうにないので、代役でお願いしたいとのことでした。弘前の旅の帰り、仙台に宿泊し、翌日の8月2日に仙石線で桃水記念館のある陸前大塚に向かいました。昼に陸前大塚駅に到着、駅の近くに食堂もなく、コンビニは4キロ先にあるとのこと。とても炎天下に歩くこともできず、思案していたら、駅近くに竹内商店の看板が目につきました。この店を訪ねたら、雑貨店でアイスクリームのボックスがありました。棚には、カップ麺が数個並んでいました。店の奥さんにお願いして、2個購入してお湯を入れてもらいました。テーブルで待っていたら、奥さんが一緒に食べなさいとキュウリの漬物を出してくれました。地方を旅して、こうした真心をいただき感謝の気持ちになりました。なんとか腹も膨れて、桃水記念館に向かうと、手前の集会所で二葉園宗家日本民謡桃水会、青柳会長以下30名くらいで後藤桃水を偲ぶ会が開催されていました。会長にお聞きしたら8月8日が後藤桃水師の命日なので、その前の日曜日に毎年、この会場に会員が集まって後藤桃水師を偲んでいるとのことでした。この方々は、午前中で終わり解散になるところでした。私が電話で約束していました藤岡さんは、その先の桃水記念館で役員会を開催の後、午後2時から菩提寺の洞安寺本堂で法要を行うとのことでした。記念館で大沼桃雄会長や藤岡さんに挨拶の後、お茶をいただき、室内の写真などを拝見した後、皆さんに高橋呂竹先生より預かりました、後藤桃水師の弟子、木村江桃氏の本曲演奏CDを贈呈しました。大沼会長にお願いして、高橋呂竹先生の代役で本堂での法要に出席させていただきました。本堂では、大沼会長の挨拶の後、洞安寺住職の読経のあと、会員70名が焼香をして、最後に積木石節の大合唱がありました。本堂前で記念撮影の後、墓前にて全員で積木石節の合唱があり、さらに記念館前の銅像の前で、再度、積木石節の合唱で閉会になりました。記念館の中で大沼会長から本曲の話をしてほしいとのことで、高橋呂竹先生が昭和28年から35年まで、この地まで稽古に通い、布袋軒鈴慕を学ばれた話をしました。すでに後藤桃水師を知る会員は3名しかいないとのことでした。夕方4時過ぎ、小雨が降る中、無人駅で電車を1時間待たなければならず、困っていたところ、桃水会会員で宮城県栗原市から車で来られた佐藤ご夫妻から、車で仙台駅まで送りますからと声を掛けていただきました。重いスーツケース、3尺管の長いカバンなどを積んでいただき、途中のコンビニで奥さんがお腹がすいたでしょうとパンや飲み物を買っていただき車内でご馳走になりました。佐藤さんは、民謡の一家で奥さんは津軽三味線が得意とのこと。いろいろな施設に家族で慰問に出かけているとのことでした。わざわざ遠回りして仙台駅前まで送っていただきました。仙台駅から新幹線に乗り換え、帰途につきました。
仙石線陸前大塚駅(クリックで画像を拡大)
仙石線陸前大塚駅(クリックで画像を拡大)
仙石線陸前大塚駅(クリックで画像を拡大)
桃水記念館(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その2)2009.8.2

民謡の大家・後藤桃水師の50回忌法要が平成21年8月2日、午後2時から民謡桃水会の会員70名により、菩提寺の曹洞宗・洞安寺にて営まれました。後藤桃水師は布袋軒の虚無僧・長谷川東学に入門し、産安の曲を学びましたが鈴慕は長谷川東学が亡くなったので、その弟子、小梨錦水師に学びました。後藤桃水師は昭和35年8月8日に81歳で亡くなりました。戒名は双葉院民謡桃水大居士。セミの鳴き声、ミンヨーミンヨーから民謡に名前を命名したことで有名です。
桃水記念館(クリックで画像を拡大)
桃水記念館(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の墓(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の墓(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その3)2009.8.2

後藤桃水師の墓碑(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の墓碑(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の墓(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の墓(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その4)2009.8.2

上段の写真は洞安寺本堂裏の墓地。中央に後藤桃水師のお墓がある。山で鳴く蝉の声が真夏の暑さを感じさせていました。中段の写真は洞安寺本堂で民謡桃水会の大沼会長他70名による、後藤桃水師50回忌法要が営まれました。住職の読経の後、会員による詰木石節の大合奏がありました。
下段の写真は、後藤桃水師の墓前で、会員全員で詰木石節の合奏で、法要も終わりました。
本堂裏の墓地(クリックで画像を拡大)
洞安寺本堂(クリックで画像を拡大)
洞安寺山門(クリックで画像を拡大)
墓前で献奏(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その5)2009.8.2

記念館内で(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その6)2009.8.2

後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
桃水会歴代会長の写真(クリックで画像を拡大)
桃水会歴代会長の写真(クリックで画像を拡大)
桃水会歴代会長の写真(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その7)2009.8.2

桃水会歴代会長の写真(クリックで画像を拡大)
桃水会歴代会長の写真(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
桃水会の皆さん(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その8)2009.8.2

後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
桃水師の吹き料の写真(クリックで画像を拡大)
後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その9)2009.8.2

後藤桃水師の写真(クリックで画像を拡大)
曹洞宗・洞安寺での法要(クリックで画像を拡大)
曹洞宗・洞安寺での法要(クリックで画像を拡大)
曹洞宗・洞安寺での法要(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その10)2009.8.2

全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)
全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)
全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その11)2009.8.2

全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)
墓前に移動(クリックで画像を拡大)
墓前に移動(クリックで画像を拡大)
全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)

後藤桃水師50回忌法要に参加して(その12)2009.8.2

全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)
全員で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)
記念碑(クリックで画像を拡大)
記念館前で積木石節の合唱(クリックで画像を拡大)

小梨錦水師を憶ふ(後藤桃水)普化第15冊より(昭和14年3月15日発行)

小梨錦水先生を憶ふ 後藤 桃水 (普化第15冊より)
私は中学二年の時、作並温泉に遊んだ帰り途、愛子町の或茶屋で大工政五郎という人の吹いた追分節を聴いて感激したのが動機で、先生に入門することになりました。暗譜稽古で追分節を習ったが、其の当時は六段や春雨などを月琴に合わせて吹くことが流行したので、私もそれを吹いて見たくて先生に願ったら、そんなものを面白がるようではいけない。然し少しは知っているのもよかろうというので、初段を半分と春雨を三分の一ばかり稽古して貰ってから、此の後は同じようなものだから、これで沢山だといわれました。そして鈴慕の曲を教えて下さいました。毎日毎日同じことを繰り返して、一か月ばかりでどうやら格好だけは出来たようなもののちっとも面白くない。これを十年も吹かなければいけないんだと聞かされたものでした。面白くなくて、難しくて、途中で止めようかと思ったりしたことも度々ありました。けれども、だんだんに音色が良くなるような気がして、いくらか興味を感じながら稽古を続けたのでした。先生ははやくご両親を失われ、独身で貧しいお暮しをなされて居りました。門人達が持ち寄りで障子を張ったり、畳を敷きかえたり、酒や菓子を買って来たり、時には米や味噌をまでも持ち込むものがあったりして、師弟の情誼は誠にあたたかいものでありました。先生の稽古は厳格で、しかも簡単で、十五六分もするとすぐ尺八を片付けて、武士道のお話をなさるのが 常でした。武田勝頼だの武田信玄だのという武将の逸話などを幾度も幾度も聞かされたものでした。いつもいつも同じことなので、武田勝頼が出ると、皆はクスクス笑い出しますが、黙って聞くようになりましたのです。稽古を受けた当時は、それほどにも思わなかったが、私達がいくらかづつ上達するにつれて、先生の技量が非凡であることを感じ、お互いに話し合ったものでした。先生はただ「吹け、フウワリと尺八の音を出せ」といつも繰り返し繰り返し云われるだけで、外に尺八に就いての講釈らしいことは一言も話されませんでした。先生の吹き込みは強くて長くて、流石東北の名人といわれた長谷川東学先生でさえ驚嘆された程で、稽古の私達はひどく苦しい思いをしたものでありました。先生は四年も五年も経った門人達に独奏させてこころよさそうに聞いて居られ、どうやら鈴慕の形が出来たようだなと云って喜ばれるのが常でありました。私は六十歳の今日まで尺八の大家と云はれる方々の吹奏をしばしば聴きましたが、達者に器用に吹く方は相当にありますけれども、つまり尺八吹き、尺八を吹いて楽しむというようにしか思われませんでした。どうも尺八を吹くという気持ちが邪魔をするのです。先生のは尺八が先生に吹かれるのです。尺八そのものが
良い気分になって先生というものが無くなってしまうのです。尺八によって先生が楽しむんでなくて、先生によって尺八が楽しむのです。先生は其の境地に達せられたのです。先生の吹奏には先生の独創の手法がありました。否、手法というよりも独特の音色という方がよいのです。これは吹いて吹いて吹きぬかれた先生の努力と、玲瓏玉のような人格の光とによって獲られた至實であることは勿論であります。先生の前に先生なく、先生の後に先生がない。古今独歩の名人であったと申し上げても決して過言ではないと信じます。これほどの先生にご指導を受け、深く深く私の脳裏に刻まれた先生の至芸鈴慕の秘曲竹調高音瀧落鉢返等、私には吹き得られなくとも、先生の音色や手法に念じて、其の妙趣を味わう事だけは出来得る自分を此の上もない幸福だと感じて居ります。先生はいつも俺が死んだら墓前で鈴慕を吹いてくれ、之が遺言だといわれておりました。然し俺はそんな風には教えなかったと睨まれるは必定、いつもご命日には気後れがして、未だに吹きかねて居ますので誠に相済まぬ事と思って居ります。