蒼龍窟号

明暗蒼龍会の蒼龍窟号免状と河井継之助の蒼龍窟について

為君幾下蒼龍窟(君が為幾たびか下る蒼龍の窟)幕末、長岡藩総督:河井継之助

長岡藩士の河井継之助 は1827年(文政10年)1月生まれ。1859年(安政6年)岡山県備中松山藩で儒家、陽明学者であった山田方谷先生に師事すべく長旅をして、今の高梁の城下町に到着した。早速、山田方谷先生を訪ねるも、先生から3日後に返事をするとのことで、今の美観地区紺屋川のそばの宿に泊まった。ようやく弟子になれた河井継之助は現在、伯備線の駅になっている方谷駅の場所にあった山田方谷の屋敷で方谷の藩政改革を学んだ。3か月の後、江戸に向かうのであるが、方谷との別れに、高梁川を挟んだ対岸で師匠に向かって三度土下座して別れの挨拶をしたそうです。岡本竹外先生は、新潟県新発田市の生まれですが、禅の道も由良・興国寺の古川華稜老師について究められました。郷里新潟県長岡市で幕末の英雄であり、また禅の道を究めていた河井継之助にちなんで、自分の普化禅尺八の会の名前を蒼龍会としました。また、普化禅尺八の最終免状の名前を河井継之助の雅号、蒼龍窟号とされました。私の郷里は、山田方谷が住んでいました備中松山藩、現在の高梁市です。高梁の町中から、高梁川を挟んだ対岸の山の中腹に、山田方谷にちなんで、方谷林という公園があります。この公園の上部の自然石に幼少の山田方谷の手形が刻まれています。私が小学校の頃は、よくこの公園に遊びに出かけ、自分の手を合わせたものです。でも、この頃は、山田方谷がどんな人物か知りませんでした。私の師匠、岡本竹外先生が、蒼龍窟の免状を渡す時に、あなたは郷里の岡山で一つの宗風を起こしなさいと、耕月の名前をつけたことを説明されました。岡本竹外先生の郷里の英雄・河井継之助と私の距離の山田方谷先生の話は非常に興味のあることです。岡本竹外先生から。古典尺八の曲だけ学んだ人は、たくさんいますが、先生の目指されたのは尺八演奏家を育てるのではなく、普化禅尺八を伝えることを目的とされ、これを習得した人のみ、蒼龍窟号の免状を与えられました。師の法燈を絶やさないように、「人の為に尽くしなさい」という教えを守り、少しでも後世に残していきたいものです。
左の写真は、河井継之助が訪れた五万石の城下町、高梁の町を見下ろす臥牛山、海抜430mの山頂にある備中松山城 。最近では、雲海の城として有名になりました。
備中松山城天守閣(クリックで画像を拡大)
天守広場から見た備中松山城(クリックで画像を拡大)