錦風流尺八と岡本竹外先生の思い出
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岡本竹外先生から学んだ技と弘前の旅(2014.10.14)

この記事は、虚無僧研究会の小菅会長から依頼があり、虚無研会報に記載する為に書いた記事です。

岡本竹外先生から学んだ技と弘前の旅      明暗蒼龍会 前川耕月 

 

私は十八歳で、琴古流尺八の先生に入門しました。琴古流尺八の世界では、ひたすら三曲合奏の稽古でした。目標は大きな音を出すことでしたが、二十八歳の時に、琴古流尺八の兄弟子から、横浜に明暗流の本曲を吹かれる岡本先生がいるとのことを聞きました。琴古流尺八の方も、頭打ちの状況の中、明暗本曲に何かしら興味を持ち、早速、兄弟子に岡本竹外先生を紹介していただき、昭和五十三年の十月に入門することができました。初めての稽古日に稽古に来られている皆さんは、地無し管の二尺一寸管や二尺三寸管を持参していました。私はとりあえず、琴古流尺八の一尺八寸管を持参して、まず調子の曲から指導していただきました。地無し管の入手方法を先生に尋ねると、今は手持ちの尺八も無いので、大阪の門田笛空さんに注文をするとのことでした。岡本先生の地無し一尺八寸管を吹かれるのを見ると、私がこれまで十年間、琴古流尺八を吹いてきた奏法とは別物であることがわかりました。今までのように口先を絞って、力任せで吹くのは、まずいと判断して、稽古の時は、先生のような吹き方真似をしました。ひとまずは、ごまかしのような状況でした。一ケ月くらいしてから、会社で勤務中に岡本先生から電話があり、門田さんから地無し管が届いたので、会社の帰りに家に来るようにとのことでした。その当時、尺八代金が二十一万円とのこと。会社の昼休みに銀行に出かけて、定期を解約して、仕事が終わると、岡本先生宅に向かいました。初めて手にした地無し二尺三寸管、思わず嬉しさがありましたが、先生から、この尺八は鳴りがいいので、これで稽古をすれば上達すると言われました。次の稽古日からは、この地無し管を持参して、指導してもらいましたが、何故か先生の音味とは別の道に逸脱しているような感覚で、悩んでいる間に一ケ月が過ぎてしまいました。今度は手にした地無し管の奏法で深い谷底に落ちてしまいました。そんなある日、夢の中で、今迄の奏法が間違っていて、口先を変えたら別の音がでたところで夢から覚めました。この朝は、誰も出社する前に、会社に地無し管を持参、階段の踊り場にありました姿見の前で、夢の再現をしたところ、前日までの音とは別物の音を出すことができました。この時の嬉しさは、一生忘れられないものに

なりました。その翌週に、蒼龍会の総会が予定されていたので、担当の私に打ち合わせに来て欲しいと、岡本先生から連絡があり、喜びいさんで先生宅に出かけました。蒼龍会の総会の場所や日時など先生から相談され、なんとか会場も予定ができたので、私が夢に見た奏法のことを先生に話したところ、先生が口にされた言葉は、ある雲水がいくら修行を積んでも悟りが開けないで悩んでいたが、ある時に、竹箒で庭を掃いていたら、箒で刎ねた小石が飛んで、近くの竹に当たり、カンと甲高い音を発した。その音を聞いて、この雲水は悟りを開いたとのこと。あなたは夢の中で地無し管の奏法について悟りを開いたのですよと言われました。その後に、尺八の奏法には難管鳴らしという技があると聞きました。その奏法について、岡本先生に入門した時に、拝領しました大森曹玄師の書かれた「劍と禪」、先生は、この本を本棚から手にされ、その本の中の「むすび」に心・息・身の一致と剣、のところに「正中心鍛練法」を提唱された肥田春充氏の丹田の図面が掲載されている部分を指摘され、剣も地無し管も同じ丹田で音を出すように努力をすれば、今までと違い「自在の音」が出せるようになると言われました。また、あなたは今でも、琴古流尺八で合奏稽古をしているようだが、私の琴古流尺八の合奏の思い出はこんなことがあったと話されました。地唄、九州系の名手川瀬里子氏の門下、初代・青木鈴慕師の妹、太田里子先生と、若い時に合奏をしたが、その出す音に太田里子師から、もう少し、三味線の音に乗るような、音を出すようにしなさいと言われ、それから三曲合奏での、音味を変える稽古をしたとのこと。その工夫した結果、何年かして太田里子師と合奏したら、あなたの吹き方は。以前とは別物になったねと褒められたとのこと。あなたも、そんな音味が出せるように研究しなさいと、岡本先生が吹かれた残月のテープをいただきました。三十五歳までは、琴古流尺八と明暗の地無し管の稽古を続けていましたが、それからは地無し管一筋になりました。地無し管の製作も、先生の所蔵されていました、桜井無笛師の地無し管を参考に、年末に岡山県高梁市の実家に帰省する度に、竹堀をして、油抜きをしては、実家で竹干しの管理をしてもらいました。それからは、岡本先生の吹き料でありました大久保甲童作の地無し二尺三寸管のような竹材探しをしました。平成五年に岡本先生から蒼龍窟の免状を頂いた頃の十月に、岡山県の実家で法要があり帰省した時に、わずかの時間を利用して竹材五本ばかり掘ることができました。その中の一本の材料から、後に三尺管を製作することができました。その一本の尺八が、後に「自在の音」を出す、すばらしい道具になったわけです。岡本竹外先生は平成十二年四月に亡くなりましたが、その二か月前に、先生の前で献奏しましたが、まだまだ、この技は完成の途中でした。やっと、それらしい技が完成したと感じるようになったのは平成十七年でした。この年に、妻が仕事で利用しているスタジオを借りて、三尺管で岡本先生から学びました本曲を三曲吹き込みました。その後、平成十九年に、別の曲を五曲吹き込むことができました。従来の尺八奏法ならば、歌口の部分にマイクを置いて録音ですが、岡本先生から学んだ奏法では、尺八の管尻の先から音が出るので、マイクは、床のすぐ上に設置して録音してもらいました。その後、いろいろな場所で出会う方々に、このCDを差し上げましたが、皆さんからいただきました、お礼の手紙に書いてあることは、このCDを休みの日に、一日中聞いていたとか、あるいは高齢のおばあちゃんから、疲れて寝付かれない時に、このCDがあることを思いだして、頭もとで、かけて寝るといつのまにか熟睡していたとのことでした。琴古流尺八の十年間の間、自分で力いっぱい吹いていた尺八の音は、聞く方にすれば、我慢の十分間だったかも知れませんが、岡本先生から学んだ奏法は、口先に力を入れることもなく、ただ、丹田を動かせば、尺八のさきから自在に音が出せる奏法。吹く尺八とは別物なので、肺活量の心配もなく、先生の言われていました、太い竹ほど楽に大きな音が出せるという、この技がなんとか習得できました。一昨年、青森県弘前市誓願寺において、虚無僧研究会の献奏大会が開催されましたが、最後に薩摩琵琶の名手・平尾雄三さんに一曲演奏していただきました。懇親会の後に、平尾さん宅に招かれた時に、平尾さんから、東京在住の鶴田錦史師宅まで弘前から七年間稽古に通った話を聞きましたが、その話の中で、鶴田先生から、聞く人に向かって、これでもか、これでもかと音を出しても、相手は横を向いてしまう。そうではなくて、相手を誘い込むような音を出さなければ駄目だよと言われたとのこと。岡本先生から「自在の音」を出すようにと指導を受けて、三十年の月日が過ぎた今、やっと、丹田と口の滑車と、そして尺八の中のピストンが一本の糸で結ばれ、尺八を意識することなくただ、丹田を自在に操ることで、地無し管の先からは、自在の音味の音が出せるところまで、到達できるようになってきました。この事を、亡くなった岡本先生にいかに報告しようかと思っていた、二か月前の、ある夜に、変な夢を見ました。芒の生えた、広い草原の中央に大きな石があり、その石の上に岡本先生が杖を片手にどっしりと座っているのが見えました。その方向に、一生懸命歩くのですが、なかなか近づけません。やっとのことで、先生の前に着いて先生「自在の音が完成できました」こう報告したのですが、先生は返事をすることもなく、ただ生前の顔で、にっこりされると、立ち上がり、杖を片手に、芒の生えた草原を向こうに立ち去っていかれました。その後は意識も無く、朝の陽ざしで目が覚めました。今年十月十三日は、弘前市誓願寺において、津軽初代藩主、津軽為信公の軍師であり、弘前の街づくりに貢献したと言われています、沼田面松斎顕影会が開催されます。この会は弘前城築城四百年祭の一環として開催されるようになり、今年で四回目になります。昨年までは、郷土史の先生方が津軽藩の歴史などを講演されてきましたが、出席者の方々が、一時間の話を本堂の中で聞くのも、忍耐が必要になります。今年は、その講演の講師がなかなか、見つからないとのことで、誓願寺さんから、私に尺八献奏と、錦風流尺八の話をしてほしいと依頼がありました。虚無僧研究会の献奏大会で大変お世話になったこともあり、今回の講師を引き受けることにしました。津軽藩の歴史については、地元の方々の方が詳しいので、尺八献奏の間に、私の郷里、岡山県高梁市「備中松山城」にまつわる話をし、その後、津軽錦風流の話をして、錦風流尺八演奏は地元の、錦風流県技芸保持者・藤田竹心氏、伝承会の高橋勝良氏に津軽弁の本物を、お願いしました。今回の講演で私がいただきました貴重な一時間、皆さんを誘い込むような献奏や話ができるかどうか、出席された方々の顔が下に向かないことを願いながら、弘前に出かけてきます。

 

 

錦風流尺八と岡本竹外先生の思い出(2015.3.26)

虚無僧研究会の小菅会長から、虚無研会報に掲載する記事の依頼があり、岡本竹外先生の思い出を書き上げました。

錦風流尺八と岡本竹外先生の思い出 

 私が岡本竹外先生に入門してから三十七年の歳月が過ぎました。その間に、岡本竹外先生に学んだ弟子の方々も、御多分に洩れず、高齢化になり、岡本先生が設立されました、明暗蒼龍会の総会や研修会に出席できない方が増えてきました。そのため会員の皆さんに、蒼龍会の活動状況を記事にまとめて、それを送付することにしました。この記事のタイトルは「蒼龍会通信」と題して、今年一月に創刊号を作成しました。その中に、昔の思い出の写真として、昭和五十八年一月二十二日に横浜市中区にありました神奈川県自治会館の会議室を借りて、蒼龍会の第一回目の総会を開催しました。出席者は十七名でした。その時の記念写真を見ると、すでに五名の方が、亡くなっています。それ以降に開催しました総会や研修会では、虚無僧研究会の小菅会長はじめ、虚無僧研究会の重鎮の方々も客員として出席されるようになり、出席者も三十名くらいになり、研修会場を探すのが私の役目でしたが、大変な思いをした記憶があります。また、研修資料などは岡本先生が準備されました。その研修会を振り返れば、岡本先生の禅に関する話が多くて、出席された方々も、その内容を理解するのに四苦八苦でした。研修会も終わり、懇親会となれば、みなさん酒も入り、大変な盛り上がりでした。それから時が過ぎ、客員で出席された先生方も、次々と亡くなり、平成十二年二月の総会の二か月後、四月には岡本竹外先生も亡くなりました。この年、六月の臨時総会で、明暗蒼龍会の二代目会長に高弟の高橋峰外氏が就任されました。岡本竹外先生存命の頃の総会、研修会は、どことなく皆さん緊張感がありましたが、二代目の高橋峰外会長になり、飛び入り参加の方も大いに歓迎され、会も和やかな雰囲気で今日まで活動してきました。今年は二月七日に横浜のホテルで蒼龍会総会が開催されました。高橋峰外会長から、十五年間務めた会長を退任し顧問に就任することを、会員の皆さんに告げられました。また、明暗蒼龍会三代目会長に、私を推薦していただき、会員皆さんの同意をいただき、私が、これから重責を担うことになりました。今年、六月末に予定されています明暗蒼龍会夏季研修会が、私の会長としての初仕事です。岡本先生が亡くなった後、ここ数年は研修会の講師を私が担当してきました。今年の夏季研修会も私と副会長の相藤さんが、研修会の講師を担当することになっています。すでに研修会のタイトルも「錦風流尺八と弘前の旅のまとめ」と題して、資料の準備に入っていましたが、旅先の北海道、札幌滞在中に、小菅会長から電話で、虚無研会報の原稿依頼がありましたので、移動時間中に書き上げたものです。岡本竹外先生は、錦風流尺八は、錦風流尺八・三代宗家、成田松影(清衛)師から、学ばれ、昭和二十七年に師範試験に合格して、師範免状をいただいていましたが、稽古の時に何度も口にされたことは、自分が一番苦手にしていた流し鈴慕の曲、成田先生は、そのことを見抜いていて、試験の時に、あなたは流し鈴慕を吹きなさいと言われたとのこと。それでも無事に吹くことができて、合格し、免状はもらったたが、それから二年くらいして成田先生から、やっとあなたも錦風流らしくなったなと言われたそうです。岡本先生も亡くなるまで、錦風流尺八の発祥の地、弘前には一度も出かけられたことがありませんでした。稽古の時の、岡本先生の話の中で、明暗の尺八で、錦風流を吹いても、竹の作りが違うので、むしろ琴古流尺八の方がいいと聞いた記憶があります。その当時、私には何が違うのかよく理解できませんでした。岡本先生が亡くなった九年後に、私は錦風流尺八の歴史調査の旅に、弘前に出かけました。その中で、地元の錦風流尺八家が、これまで使用していました、数々の錦風流尺八を見ることができました。特に、錦風流尺八、津軽三名人の一人、青森市内で活躍され、たくさんの弟子を育てました津島孤松師の使用した尺八はすべて、弘前にいました津軽三名人の一人、折登如月(清風)師が製管されたものでした。弘前在住の折登如月師は、青森県には尺八になる真竹はないので、当然、関東や東北の方から材料を仕入れて製管していたのでしょうが、現在、残されている数々の尺八、堅い竹材で、すばらしいものばかりです。弘前訪問で、初めて折登如月作の尺八に息を入れた時に、岡本先生から聞いていた琴古流尺八の話とは、まったく別で、地無し管の息受けの良さと、音味の素晴らしさは、さすがと思われるものばかりでした。以前、仙台市在住の故・郡川直樹さんから、津島孤松師が太い尺八を吹いている写真を見て、えらくメリ吹きをしているように見えるが、本当に名人だったのか、こう話しかけられたことがあります。琴古流、都山流の尺八家から見れば、管尻を上げて吹く姿は、メリ吹きに見えますが、平成二十一年七月、弘前二度目の訪問の時に、錦風流尺八の資料をいただきました、地元、弘前で都山流大師範として有名でした故・境道山先生が、折登如月作の地無し管を手にされ、都山流尺八の要領で、歌口を吹かれましたが、むなしく風きり音が出るだけでした。如月管のように太い竹の歌口を現代管のように強く吹いても、半分は風きり音になるだけです。やはり、丹田の力を利用して、管尻を持ち上げて、尺八内部に圧力をかけないと、音にはなりません。今、思えば、初対面の大先生に、その奏法では如月管は鳴りませんよと、別の尺八を手にして、境先生の腹を押したことを思い出し、大変失礼なことをしたと反省しています。その後、私も弘前郊外、浪岡在住の方から、如月銘の地無し管を一本入手することができましたが、太くて息受けの良い尺八です。この尺八も、かなり吹き込まれたように見えますが、たまに手にして息を入れても、嘲笑うような音味しか出ません。以前、法身寺での献奏大会に一度、この尺八で錦風流獅子の曲を吹いたことがありますが、一カ月間、毎日稽古で息をいれましたが、吹き始めると、その音味に聞き惚れて、何度でも曲を吹き続けることになりました。私の体の一部として機能する尺八にさすが、如月師の技はすごいものだと感心しました。このことから、やはり古管尺八は、収蔵庫にしまうものでもなく、また博物館に飾る物でなく、絶えず手にして息を入れることが一番大切なことだと感じました。また、これまで、弘前訪問で出会えた折登如月作の尺八、寸法や内部の作りなどを参考に、年末に岡山県高梁市の実家に帰省するたびに、遠路、広島県北部まで出かけては、岩場に生えた、堅い竹を探しては、錦風流尺八を製管してきましたが、材料はいくら百点でも、錦風流本曲の音のつながりは、明暗本曲と違い、非常にむずかしいところがあります。現代管に地を付けないで、本曲用の地無し管として販売されているものもありますが、、明暗本曲ならば、問題はないでしょうが、錦風流本曲を吹くとなれば、どうしても折登如月作のような尺八が必要になります。私が製管しました、如月管もどきでは、錦風流、調の曲を吹いたら、出だしのウロ、ウツレを吹くだけで、思わず自分で笑うような、おかしな律になることが何度もありました。こうなれば、この尺八は庭の生垣になるだけです。琴古流尺八のように地付きの現代管で錦風流本曲を吹かれる方はただ歌口に強く息を吹きつけることが、当たり前のことでしょうが、弘前でも、昔、錦風流本曲のみを地無し管で吹いていた方と、琴古流江雲会の方が地付き管で吹く錦風流は、かなり違ったものであったとのことです。錦風流本曲の奏法には丹田呼吸の波浪息が大変に重要です。調の曲でも、ただ吹くだけではなく、最初のウでは、腹がへこみ、ロで腹が前に出て強く息を尺八の内部に入れ、残りの息があれば、それをコミ息にするわけで、今では、わざわざ息を吸ってコミを吹く人がいますが口伝で、コミ息は、水面の波紋が消えるように、あるいは釣鐘の余韻が消えるように吹くことが伝えられています。弘前に出かけるたびに、折登如月作の尺八に息を入れさせていただき、その音味をお土産に耳に残し、いざ自分の竹材で挑戦することは、これから、尺八人生が終わる時まで、続くかも知れません。今だ、満点の尺八は製管できませんが、それなりに使用できるものは、自分の手元で死蔵させることなく、弘前の錦風流伝承会に寄贈し、皆さんが稽古に活用しています。弘前では、小学生も四年生になれば、津軽三味線やねぷたの笛を皆さんが授業で手にしますが、弘前藩藩主が奨励しました錦風流尺八が地元でも消え去ろうとしていることに、非常に残念な思いがします。錦風流の故郷、弘前で錦風流伝承会が少しでも発展するように、これからも協力していくつもりです。

思い出の1枚の写真

昭和58年11月23日、新宿区法身寺での虚無僧追善供養尺八献奏大会に於いて、岡本竹外先生と一緒に錦風流獅子の曲を献奏しました。岡本竹外先生が2尺管で本手を、私は2尺5寸管で雲井調子を献奏しました。
岡本竹外先生と獅子の合奏(クリックで画像を拡大)