宮川如山師・古希祝賀演奏会のこと
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宮川如山師・古希祝賀演奏会のこと(普化第15冊より)(昭和14年3月15日発行)

宮川如山師・古希祝賀演奏会(昭和十三年十二月十八日)について

(普化第十五冊より:昭和14315日発行)

演奏会第一部

一、大和調    田中恭平、谷狂竹、橋田無適、浦本浙潮、山極一三、
                           内山浙水、渡部嘉章、稲垣束、外数名

二、京調           谷   狂竹

三、鈴慕        仙台 後藤  桃水(欠席のため代役で浦本浙潮      
                                                                  氏が演奏)

四、虚空        京都 谷北  無竹

 

演奏会第二部

一、薩慈        福岡 一朝  普門

二、通り・門附け・鉢返し   神   如道 

三、三谷           赤星  水竹居

四、阿字観          宮川  如山 

                  挨拶       浦本政三郎

                  謝辞       宮川 如山

 

当日の出席者

山極 一三、田中恭平、内田孝一、浦本政三郎、(宗家)永野雄次郎、大久保交童、一朝普門 、谷北無竹、谷 狂竹、渡部嘉章、阿部知童、福島俊彦、片山 識、蛯原凡平、暉峻文子、近藤雷童、川瀬順輔、加藤雄童、

吉田 茂、神 如道、堀江信吉、小川龍水、熊井櫻童、横山雪堂、關村つる子、圓谷 豊、堂前俊雄、依田君美、川本敏郎、竹中竹僊、神宮徳壽、山本 潔、奥村洞麟、三宅透關、小林喜四郎、光竹康郎、須藤勝義、土屋大造、坂齊武皃、平井幹直、土岐 正、富樫 實、伊丹康人、吉見正二、川勝要一、百瀬正男、町田嘉章、本川弘一、厨川登久子、田中松聲、飯島 茂、中西政周、岩田昌一、稲垣 潜、藤田鈴朗、竹花雄三郎、若原竹風、安藤泰蔵、小林啓行、木下公大、川瀬朴二、中塚竹禅、荒川清二、山田積善、稲垣 束、森田謙三、馬場照男、笠木良男、來仙空道、橋田無適、明 由松、土添廣園、木崎雲經、

 

公開会合記録 (浦本浙潮)

1.晝の会合

本会会則の第三条には毎月一回公開の吹簫及び清談会を開く規定がある。その第一回の会合はなるべく清楚に然し又 盛大にし度いと念願して居た。元来本会は会則の二にもあるように、普化宗の伝統を貴ぶと云うことが一つの目的であるので、その意味からは成るべく斯道の先達の士を尊敬することも道に叶う所以であると思っていた。偶々宮川如山師が本年をもって古希に達せられるので、是非先生の古希の祝いを兼ねて第一回の公開演奏会をやらなければならぬと、谷狂竹氏とも打ち合わせ、一方京都の谷北無竹先生、又仙台の後藤桃水先生にも、来て頂き度いと御両所に御依頼したのであった。一方又本会は斯道の為に飽く迄正々堂々の陣を張らなければ、将来の発展を期し難い。同じ立場をもって普化尺八の道を歩んで居る同志に如道会の神如道氏が居られる。谷狂竹氏を介して同氏に出演を依頼した處が、喜んで参加されるとのことであった。一方過半永眠された京都明暗根本道場の小林紫山氏の跡目を継ぐのではないかと思われて居た富森茂樹氏にも出演を依頼したのであったが、多忙で出席がむずかしいと云う事で、この方は取り止めるより外はなかった。尚又、宮川如山氏の門下で小金井に道場をもって居る高橋空山氏にも出演の依頼をしたのであったが、同氏は先師盤龍禅師の三回忌法要があるので其日は出演しかねると云うので、同氏からも断り状をよこされた。さて斯様な次第であったが、出演の各位の流風を考察して見ると、日本に於ける普化尺八の殆んど全部が網羅される。即ち錦風流の神如道氏、布袋軒の後藤桃水氏、京都明暗流の谷北無竹氏が居られるので、漏れるのは博多の一朝軒の伝統のみである。幸いこの春三月一朝軒の衣鉢を伝える一朝普門氏が拙宅に来られたので同氏に出演を依頼した處が幸いに快諾された。斯様にして別項の如きプログラムが出来たのであった。省みれば大正十一年自分が東京に出て来て、先ず普化明暗の尺八の宣伝をするのには先ず東大の学生に呼びかけなければならないと、大正十二年春、東大赤門前の喜福寺に道場を持ち、そこで全国普化尺八の大会を開催し、京都の小林紫山氏、仙台の後藤桃水氏、熊本の津野田露月氏等が来られて華々しく普化復興を宣し、全国普化尺八各流合同の開いたのであったが、震災で道場も中止し、昭和三、四年來自宅を道場として、普化と云う雑誌を三年ばかり続けて出したのであったが、尚時代が来なかったかそれとも自然中絶して今日に及んだのであったが、今回の本会第一回演奏会は正に大正十二年以来の初めての全国的普化尺八の大会であった。年を閲すること正に十五年である。自分としては感慨なきあったはずであった。斯様なわけで、折角全国的な普化尺八大会をやる

ことであるから、同夜更に有志の士相寄って清談演奏会を催したいと、別項の如き案内状を約百五十余人に差し出したのであったが、晝の演奏会には別項記載の如く七十名、又夜の会には四十名の会集で、誠に盛大な而も近来稀に見る魂の会合であったことは自分として感謝措くあたわざる處であった。只仙台の後藤桃水氏が傷兵慰問の演奏会があって、どうしても出席できなかった為、未熟な自分が同氏のかわりに鈴慕の一曲を奏して、会衆のお耳をけがさなければならないことであった。尚又、宮川老師はご都合で夜の会合に出られなかったが、是又「吹一寥吹して去る」と云う普化尺八には却って應しい余情を残したのかも知れない。

2.夜の演奏清談会

會者四十名、古希を祝はれた宮川如山師は飄々乎として吹一吹して去られたが、古希祝ひとあって、席次は年齢順で、般若湯が、一本づつ食膳に並んだ。食事中に自己紹介があり始まり、主として当日の感想と普化尺八との

縁故を紹介された。それ等の内で主な話を挙げると橋田無適先生の普化尺八こそ真に日本的なものであり、行的なものであり、尺八即人間の境地であると云う事に就いての意味深い話があり、川瀬順輔老師は、氏の尺八の出発が、山形臥龍軒の普化尺八からであった事、又氏の日頃の持論である日本音楽の危機を述べ、このままにして行ったら純粋な日本音楽は盆栽の水のなくなるように滅びなければならない。音楽に国境ないなどと云う事は嘘で、言葉の延長である音楽には山一つ越しても俚謡や子守歌の節が違ってくる。まして西洋のものと日本のものと違うのは当然である。それなのに日本の生命的な霊的な音楽をやたらに西洋流に理論づけるところに、日本音楽の混乱と危機があるのではないか。又、小学校で先ず西洋音階を教え込むのがどうかと思うが、と云うような意味深い話をされた。又堀江少佐は自分は尺八玆とは本来何等縁故のないものであるが、先達迄満州に居り、然も大黒河(ブラゴエチエンスクの対岸)の寂寥とした町で、偶然にも普化の尺八の妙音を聞き、何とも云えぬ感にうたれたのであったが、先日又偶然電車の中で浦本先生にお目にかかり、今日の会合を知って参りましたが、実に感銘深い会合であったと感想を述べられた。又わざわざ甲府から出て来られた百瀬氏のお話もあったが、ここに特記したい事は独自の詩吟の生き方で特異の存在である山田積善氏と俳晝で有名な蛯原凡平氏の感銘深い話である。山田氏は先程頭の白い人の挨拶にー私が来た時この人が丁度何か吹いていたように思うがー我々の音楽は西洋の音楽の遠心的で、外に向かって行くのに対し、求心的であって、いつも内に向かうと云われたが、私は玆で王陽明先生の詩を思い出さざるを得なかった。

四十余年睡夢中、而今醒眼始朦朧

不知日己過亭午 起向高棲撞暁鐘

即ち四十余年外へ外へと、上へ上へと進んできたが、然しそれは未だ念々無常の世界に住んでの修養でしか無かった。起って高棲に登って暁鐘を撞くは正しく不退轉の内省の姿を指すのであろうと思うが、今日尺八を聞いてそうした内省的のものの貴さに打たれ、何か山の上の縁に圍れた池の端をさすらっても居ると云うような良い気持ちにもなりました。尚又、自分は詩吟の建前から聞いて大変示唆されることが多かったのである。一体自分は詩吟の吟調を自然にとって居る。例えば、風に散る花びらの音、水の音、波の音等であるが、波の例をとれば一方には荒波が岩に当たって砕けているのに波の底の水は砂に接しズズーと引いている處等に聲の節をとり、又嵐が吹いて木がボキンと折れる音、又竹の音、そうした自然の音に中に吟調の手本があるような気がして居るが偶々今日普化尺八を聞いて少からぬ御手本を得たような気持がする。一体今迄の旋律は調直線か、曲線になっていくようなものがあったが、普化尺八の旋律は、高い處からああ落ちる。落ちる、落ちると、その落ちて来るのに見とれて居ると又スーッと横にでていくのである。パァッと吹き出された音がやがて低く低く落ちてゆくのを感じて居ると、それがスット横に波うち始める。その處に実に深い暗示を受けたのである。それから、高い、強い、張り切った音と云うものは梢もすると強い音になる。自分の詩吟等でも高い處を出そうとすると、強くパットなりがちである。それなのに普化尺八では、底が小さい弱い驚くべき静かな音で出る處があった。之は詩吟でも学びたいと思った。それから普化の音色は如何にも無形の世界から有形のものになり、又それが無形の世界に入ってゆく。私はそれを大変面白く感じた。私は璋潭雲盡きて暮山出づ、と云う詩句を思い出した。山の上は雲であり、無形の世界である。然るに雲の下では有形なものとして谷川が表われ、それがサラサラと流れてゆく。然るに麓は霞んで居て又無形の姿になる。之は吾々の心と肉体と云うのもが無窮から姿になり、姿から又無窮に入るということになると思われ面白く意味深く考えさせられた。と云うのであった。次に蛯原氏のお話はいかにも氏の今良寛たる面目を思わせるものであった。私ははじめからこの会に期待して参りました。それで、私はこのように今日は一張羅の禮服をきて参ったのですが、と、こんな話をきっかけに、卅年來無識者と云うべき暮らしでありまして、殆んど家にばかりいて、外で働くと云う事をしないできました。一日に手紙一本書けばいいから自分の会社にきていろと云ってくれた人もいましたが、私はそれも出来なかった。何故であるかと云うと、私は外に求めないですむだけ求めず生きて行きたいと願っているからであった。それでは却って、世に背を向けている形ではないかと云う人もありますが、私の気持ちとしては決してそう云うのではない。寧ろ、私は世の人の温かさを感謝して生きているのである。人様には出来るだけ求めずに、そして求められて私自身で出来ることは出来るだけの事をして生きて行きたい。と云うのが本来の念願であります。一切に向かって求める事をしない。若し求めた事があったとすれば、つい先日浦本先生に、先生から送ってもらった「普化尺八の夕」と云う一文を尊いものに思い、水戸から日本紙を取り寄せて筆写した折、その中にある写真が裏甞甞表になっていてどうしても一枚づつとれぬので、重ねてお求めした位のものであります。こんな生活をしていて、或時は明日の米にも差し支えることもあるし、お金もなくなってしまう事もあるが世の中は有難いもので、こんな時には思いがけなくお米屋川瀬などを送って下さる人があるので、私は又生きて行く事が出来る。私は何で生きて行くのかと時々思うが結局ありがたい、気持ちの酔い人々と共に、温かい気持ちで生き合って行こうとしている事が、私をこんな風に生かしているのではないかと思います。というような、しみじみした氏の私生活から、段々と氏の人生観を遠慮勝に話され、今日は未だ甞って人様の前で話したことのない私的な話までするような気分にさせて頂いた此会合を厚く感謝するというようなお話であった。尚最後に町田嘉章氏が自分は、これ迄音楽を只々演奏会のみ求めて来たのでしたが、こう云う会合の中に隠れたよいものがあることに反省せしめられるものもあると云うことを述べられた。尚、話が終ってから、山田積善氏の「広瀬中佐」の詩吟、一朝普門氏の薩慈、近藤雷童、竹中竹仙兩翁の尺八追分、神如道氏の喜びを表した即興曲、谷北無竹氏の志図の曲を最後として、一同記念

署名をして、九時に散会した。

横山雪堂氏の評論「芸道か芸当か」(普化第15冊より:昭和14315日発行)

 

 

戦前の三曲の記事ですが、横山雪堂氏は東洋大学出身で異色の人物。仙人といわれた風格の人で昔風の丁髷姿は特に異形を放っていて、書家としては日本中に名を知られた変人でした。民謡の後藤桃水門下として正調追分唄い手であり、変わり種尺八家でもありました。普化尺八の賛助会員でもありました。 

 

昭和131218日に宮川如山氏の古希祝賀演奏会が開催されましたが、 

 

その時の演奏者の方々の演奏について、御批評を寄稿された。

 

 

「京調を演奏した谷狂竹氏について」 

 

さすが生命ある芸である。これでこそ始めて芸道尺八道ということが出来

る。しかし、今少し徹底あらんことを。

 

 

「布袋軒鈴慕を演奏した浦本浙潮氏について」 

 

形式から言えば、何という完備した、至れり尽くせりの芸、よくもあれだけ 

 

暗記し覚え得た事と実に感服の外はない。氏は余程頭の良い人に相違ない。 

 

しかし遺憾ながら生命がない。木なら生け花である。 

 

根がない模倣の芸である。自分の芸でない。人の芸である。いかに形式に 

 

おいて完完全全たるとも畢竟(ひつきょう)するに、芸当というの外あるま

い。惜しいかな、氏は出来上がって居るらしい。

 

 

「薩慈を演奏した一朝普門氏について」 

 

(のちの海童道宗祖)何と落ち着きのない、がさがさした、鼻ッパシばかり 

 

強い芸であろう。博多から夜行で来て、当日の朝着いたばかりとの事である

から良く鳴らないのは、大に割り引きにして聞かねばならないが、しかし、

もう少し落ち着きがなければならぬはずである。それも未だ若いから仕方が

ない。大に自重して謙譲の美徳を養い、ゴツゴツとして心を修めねばならぬ

と思う。

 

 

「通り・門附け・鉢返しを演奏した神如道氏について」 

 

氏が座ってから吹くまでの、ゆっくりした態度の形式は甚だ良いが、然しわ

ざとらしくて不自然である。芸としては、上手、平凡、上滑りの芸である。

喉の鳴るのは甚だ聞き苦しい。
 

 

「虚空を演奏した谷北無竹氏について」
 

 

さすが年配だけあって芸は練れているが、平凡、単調、面白くない。アス

ファルトの道を歩くよう。今少し、干乾びない潤いのある芸たらんことを願

わしい。

 

 

「阿字観を演奏した宮川如山氏について」 

 

なんとは鼻っぱしの強い、握拳(にぎりこぶし)のような芸であろう。 


手は開いていなければ、やくにたつまいと思う。もすこし円滑な心広く體胖


(たいゆたか)なりというようなところを、養われたらいかなものでしょ

う。真の名人であったら少々体は衰えても心は、ますます成長し冴えるべき

はずである。心が冴えたなら、芸もますます澄むべきである。僕は甚だ期待

を裏切られたのである。但し七十にして、尚を五十くらいの立ち振る舞いに

は敬服の至りである。