小梨錦水師を憶ふ(後藤桃水)
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小梨錦水師を憶ふ(後藤桃水)普化第15冊より(昭和14年3月15日発行)

小梨錦水先生を憶ふ 後藤 桃水 (普化第15冊より)

私は中学二年の時、作並温泉に遊んだ帰り途、愛子町の或茶屋で大工政五郎という人の吹いた追分節を聴いて感激したのが動機で、先生に入門することになりました。暗譜稽古で追分節を習ったが、其の当時は六段や春雨などを月琴に合わせて吹くことが流行したので、私もそれを吹いて見たくて先生に願ったら、そんなものを面白がるようではいけない。然し少しは知っているのもよかろうというので、初段を半分と春雨を三分の一ばかり稽古して貰ってから、此の後は同じようなものだから、これで沢山だといわれました。そして鈴慕の曲を教えて下さいました。毎日毎日同じことを繰り返して、一か月ばかりでどうやら格好だけは出来たようなもののちっとも面白くない。これを十年も吹かなければいけないんだと聞かされたものでした。面白くなくて、難しくて、途中で止めようかと思ったりしたことも度々ありました。けれども、だんだんに音色が良くなるような気がして、いくらか興味を感じながら稽古を続けたのでした。先生ははやくご両親を失われ、独身で貧しいお暮しをなされて居りました。門人達が持ち寄りで障子を張ったり、畳を敷きかえたり、酒や菓子を買って来たり、時には米や味噌をまでも持ち込むものがあったりして、師弟の情誼は誠にあたたかいものでありました。先生の稽古は厳格で、しかも簡単で、十五六分もするとすぐ尺八を片付けて、武士道のお話をなさるのが 常でした。武田勝頼だの武田信玄だのという武将の逸話などを幾度も幾度も聞かされたものでした。いつもいつも同じことなので、武田勝頼が出ると、皆はクスクス笑い出しますが、黙って聞くようになりましたのです。稽古を受けた当時は、それほどにも思わなかったが、私達がいくらかづつ上達するにつれて、先生の技量が非凡であることを感じ、お互いに話し合ったものでした。先生はただ「吹け、フウワリと尺八の音を出せ」といつも繰り返し繰り返し云われるだけで、外に尺八に就いての講釈らしいことは一言も話されませんでした。先生の吹き込みは強くて長くて、流石東北の名人といわれた長谷川東学先生でさえ驚嘆された程で、稽古の私達はひどく苦しい思いをしたものでありました。先生は四年も五年も経った門人達に独奏させてこころよさそうに聞いて居られ、どうやら鈴慕の形が出来たようだなと云って喜ばれるのが常でありました。私は六十歳の今日まで尺八の大家と云はれる方々の吹奏をしばしば聴きましたが、達者に器用に吹く方は相当にありますけれども、つまり尺八吹き、尺八を吹いて楽しむというようにしか思われませんでした。どうも尺八を吹くという気持ちが邪魔をするのです。先生のは尺八が先生に吹かれるのです。尺八そのものが 

良い気分になって先生というものが無くなってしまうのです。尺八によって先生が楽しむんでなくて、先生によって尺八が楽しむのです。先生は其の境地に達せられたのです。先生の吹奏には先生の独創の手法がありました。否、手法というよりも独特の音色という方がよいのです。これは吹いて吹いて吹きぬかれた先生の努力と、玲瓏玉のような人格の光とによって獲られた至實であることは勿論であります。先生の前に先生なく、先生の後に先生がない。古今独歩の名人であったと申し上げても決して過言ではないと信じます。これほどの先生にご指導を受け、深く深く私の脳裏に刻まれた先生の至芸鈴慕の秘曲竹調高音瀧落鉢返等、私には吹き得られなくとも、先生の音色や手法に念じて、其の妙趣を味わう事だけは出来得る自分を此の上もない幸福だと感じて居ります。先生はいつも俺が死んだら墓前で鈴慕を吹いてくれ、之が遺言だといわれておりました。然し俺はそんな風には教えなかったと睨まれるは必定、いつもご命日には気後れがして、未だに吹きかねて居ますので誠に相済まぬ事と思って居ります。