鈴法寺と中里介山
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鈴法寺と中里介山(20016.9.20)

鈴法寺と中里介山 ( 山下弥十郎著) ( 昭 和 52年 11 月日多 摩の あ ゆ み 第5 号 よ り )
昭和の初め頃、多摩が生んだ文豪中里介山が鈴法寺の再建を計画された事があった。当時あの有名な「大菩薩峠」の執筆に文学的生命のすべてを傾けていた介山居士が、鈴法寺再建を提唱されたのは何故か・・・・・・・・。上求菩提下化衆生の精神を巨篇に打ちこんでいた介山の思考の中には、普化の禅機に共通する何物かがあった。一切の衆生みな明暗の中に生死浮沈しつつある俗界の夢をさまそうと云う。普化の得道精神に通ずるものがあったのだ。あの大菩薩峠の主人公机龍之助が、人を斬る時だけ生き甲斐を感ずると云う、虚無の深淵をさまよいうながら、虚無僧姿で盲目の剣をとり、お雪と云う少女に手をひかれて信州白骨温泉から飛騨の平湯へ、さらに高山へ行くあたりの彼の壮絶をきわめる動き、妖気を身辺に漂わせる彼の行動等、筆先に火花を散らす様な文章の流れは読者をして魅了するものがあった。当時中里介山は竹道関係の高橋空山と親交があった。空山は北海道農大を卒業してから尺八1本を携えて全国を行脚したと云う変わり種で、現在では我国竹道会の巨星でもある。介山はこの空山によって普化の道を知り、鈴法寺の再興を考えたと思われる。筆者は羽村町の介山の旧居である「大菩薩記念館」に保存されていた関係書類を調べた事があった。それによると「普化宗顕揚主意書」と、印刷して各方面に配布されたものと「鈴法寺再建主旨財資芳名録」であった。主意書は長文であるが、その全文を下記に揚げる。

普化宗顕揚主意書
世尊双樹の間に滅を示してより既に二千有余儀其間大小乗の道幾度か興亡を繰り返し流転を極め来りぬ。我が普化宗の如きも亦此の業相を免かれず憶へば明治維新の際心なき人々の手により無檀無縁にして在家仏法なる故を以て廃宗と帰してより此の方はや六十年に垂とす而して諸々の遺従忍辱苦節を守って今日至りぬ。我等はこの由緒ある正法の影の如く薄れ行く事を深く悲しみ実体として表に浮ばしめ併て祭るものなかりし宗徒等の遺霊を慰めんと欲す。抑も当宗は大唐に於ける普化禅師の宗因を発すと難も遠く世尊の音声説法を伝えるものにして又アショカ王時代に於いては諸仏持受用三昧なりし深き禅定哲理に基く吹笛によりて人生の済度をなしたることは既に史上に明らかなり。而して我が日東の国に流布してより日本精神の至高至純なる発路の一として又外国の影響を受けず純乎として延び来れる武道をこれに加え更に其の精華を増すに至れり。顧みれば当今世をあげて空論戯論の事徒に喧しく力を労して一寸の実行実証を相励むべきの道遥かに軽せらるの時徹底実参実究を期するこの正法の顕揚は真に徒爾に非ざることと思ふ、而して尚また国を挙げて生きむことの苦難に面する折生産の業に従ひつつ其れに深むべき正法を保ち行かむとする在家仏法のまさに興隆すべき秋なりと思う。この世尊もまた大般若経に明に宣つところなり斯るが故に禅・尺八・武の三身一体を宗要とし在家仏法の一なる当宗の再顕を願ふはこれ真に命なりとなさむ。されば諸士よこの切なる大願を許容され幸いに深く外護されむことを一同に翼ふものなり。
鈴法寺竝道場建立寄付募集
我等は主意書に述べあるが如く普化宗を再興するに当り鈴法寺の再建をもくろむ、額は多少を問わず浄財の喜棄を翼ふ。
一、所在  東京府舌青梅町外新町(旧鈴法寺所在地)
一、敷地  同地東禅寺所有地(既に呈供有)
一、寺道場 寺二間四方 道場間口三間奥行五間
一、維持農場
一、師家
昭和三年十月吉日

発起人   小林万右衛門
中里弥之助
笹本長十郎
吉野 広助
斉藤宗四郎

この発起人の中の中里弥之助は介山その人であり、斉藤宗四郎は、しない勝沼の住人で明治の初め西多摩地誌を編纂した斉藤真指の子息に当り、その頃西多摩史談会の会長で父子二代にわたり郷土史の研究に終生の心魂を傾けた篤学の人である。小林万右衛門は青梅の旧家の出で町長もつとめた人で鈴法寺の研究保在に熱意をもっていた。笹本長十郎は地元新町の人で当時の村長であり其の後も終戦迄続いてつとめた自治の功労者でもある。 吉野広助は新町開拓の始祖織部之助にゆかりの家柄で篤農家として知られていた。これ等の人は何れも社会的地位にあり郷土の研究に熱心な人々でこの事業も実現も可能性が充あった筈である。この計画によると当時鈴法寺跡は民有の宅地であったので東禅寺境内にある鈴法寺の薬師堂の近くにて寺、道場、師家を建て、これに附属する農場として約千五百坪の土地の開墾を予定されていたのであった。介山は又全国からの特志の外には其頃帝国劇場で沢村正次郎一座の新国劇が大菩薩峠の上演で名声を」博して居たので、この収益の一部をもこれにあてる事を考えていた様である。その当時、筆者も郷土の先輩からそれ等の相談を受けた事もあった。「鈴法寺再建主旨財資芳名録」には三十余名の賛成者が名をつらねていたが、その多くは大阪や京都方面の人であった。問題は地元新町や周辺の動向だが、この時代はいわゆる不況時代であった。特に農村の不景気は深刻で農家の生活は今考えても想像も出来ない程であり、地元民としてこの趣旨には賛成しても積極的な協力が出来ない様であった。この計画は其後戦時と云う社会情勢の大きな変化もあり、更には其の中心人物であった中里介山の逝去によって総てが中止のやむなき結果となったのである。その鈴法寺再建運動がはじまった頃、高橋空山が斉藤氏の案内で新町を訪れた。鈴法寺の歴代墓前で献曲され、東禅寺の本堂で講演があり、筆者も青年の頃村人でと共にこの講演を聞いたが、其の折、鈴法寺の普化禅師の木造を空山が預かって行ったと云う話を後で聞いた。明治4年太政官の布告により廃宗廃寺となった時、境内の薬師堂は東福寺に移し、鈴法寺の本堂扁額は師岡妙光院に、位牌や仏像仏具のすべては東禅寺に納められた。当時の村の人達は何の考えもなく厄介払いが出来た位にしか思わなかった。その頃又東禅寺も無住にて仏像や位牌の全部を薬師堂の須弥壇の下に押し込めたまま歳月は流れて約50年間も放置されたので床板は腐り、位牌も仏像もみな下の土間に落ち朽ち果てて手を失い、首を失う等支離滅裂の状態であった。それもこの講演の折に空山から聞かされたので、初めてこの有様が判ったのであった。戦後空山の住居がわからない。聞く所によると神奈川県の真鶴町とか、又夫人が根府川の中学校に奉職して居るとも聞いた。其の後、市の社会教育課で調べた結果、小田急線の秦野市の渋沢駅の近くと云う事がわかった。昭和35年頃、筆者が市の文化保護委員になってから、同僚の稲葉松三郎・森田定義両氏と神奈川県下の文化財の視察を兼ねて高橋空山を訪れたことがある。それと禅師の木像の事もあったからである。筆者が訪ねた当時は、まだこの付近一帯は麦畑の続いた高台で新築したばかりの住宅であった。玄関から入ると道場があり正面に尺八が飾られて道場の後ろが住居になっている。幸い空山師も在宅され竹道の談義を1時間ばかり、それに本曲も吹奏されて聞くことが出来た。其の道の大家だけに薀畜を傾けた氏の話に感銘するものがあった。筆者はこの時鈴法寺の普化禅師の木像を初めて拝見した。丈は25センチくらいの座像で、洵に古い物と感じられたが首部がない儘であった。其の後どうしたか不明だが、今は地元の人々も何とかして再び鈴法寺の本尊として迎え、この地に祀りたいと思っている。この度新町鈴法寺の開基と云うべき吉野織部之助の居宅が都の文化財として指定され屋敷割りや井戸等も併せて保存される事になったが、この地にあった普化宗総本山の鈴法寺も再建とはゆかないが、何等かの形で復活させて関係資料の保存につとめ、郷土の歴史を残したいと念願している。(多摩郷土研究の会々員)