越後鈴慕随筆(岡崎自修師)
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越後鈴慕随筆(岡崎自修師)昭和59年11月

兵庫県在住、小出虚風先生より以前、送っていただきました資料を掲載します。
越後鈴慕随筆(東京・岡崎自修)
昨年、神保三谷について放談致しましたところ、意外な反響で御迷惑をおかけ致しまして誠に申し訳もありません。御迷惑ついでに、亦々越後鈴慕についてよしなし事を御聞き下さい。この様に申しますのも先日御送付戴きました 十九回如道忌の献奏曲目を拝見しますと神保三谷から、バン字及美各様の鈴慕が挙げられており、吹禅の大道に開かれた如道門が茲にもう一段広く開かれた様に感ぜられて、その昔、如道師が常々云われていたことを思い出したからです。『ワシは全国から曲を集めたが、これからはこの曲をそれぞれ又元の所へ還すことがワシの務めだ』と云うのが師の信条でしたが、甲州乙黒寺の所伝と云われるバン字が山梨の人達により、又、神保師が京の旅愁を謳い上げたと思わせる神保三谷が京都の同人によって献曲されることには感慨深いものがあります。 扨て越後鈴慕えすが、この曲は如道師、越後三谷譜の奥書に越後明暗寺の『準曲』として伝る旨の記述があります。師は嘗てこの曲をラジオの電波に乗せられたことがある由を他から聞き及んでいますが、何故か割愛された様で、私の知る限りでは譜としても音としても残されていません。私がこの曲を初めて耳にしたのは昭和二十六、七年頃だったでしょうか。師の指示で当時新潟鉄工所の技術部長であった岡本竹外師に御一緒願って越後明暗寺最後の虚無僧である斎川梅翁師をお訪ねした時のことでした。そのころ私は如道師の許で越後三谷を既に挙げ、蓮芳軒巣籠に夢中になっている最中で、竹外師が大変な執着を示されたにも拘らず、全く上の空で梅翁師の竹音さへも『成程随分変わった吹き方』と云う印象を受けたに過ぎませんでした。今にして想えば実に残念なことでしたが所謂『馬鹿の後悔くやむに似たり』で、己の愚を責めるばかりです。私が只今の処参照しているこの曲の譜は、岡本竹外、小山峰嘯並びに山上月山三師によるものです。この外、坂野如延師も採譜されていると聞いております。耳から受け取った所では竹外、峰嘯両師とも大体同様でして一は明暗的に洗練され他はより素朴ですが却って越後の味が多く残されている様な感じを受けます。月山師の竹音には接していませんので何とも云えませんが譜面からすると竹調で前記両氏と多少異なった受取り方をされている様です。亦この曲の竹調の部分に附せられた註記をつなぎ合わせて見ますと、この曲が龍が風の如くに来たって背を現わし尾を掉って立ち去る如く吹くものとされていますが、これは恐らく越後明暗寺に伝る昇り竜、降り龍の掛け軸にヒントを得た解説であろうと思われます。私が特に気に掛るのは月山譜の『刻み息』と云う
註記です。この註記は他の二譜には『二声五音』或は『五声五音』と註してありますが、この息づかいは如道師越後三谷の吹き出しで『ロツー』の大きなユリに続くブ・・・・・と刻んだ息使いを指すもので師が『打ちよせては引いて行く日本海の波の音』と称せられた部分を云うものと考えられます。師の三谷は全曲到る処にこの息使いが聞き取れますが、鈴慕に於いてもやはりこの息使いがなければ『越後明暗』の特色が出ないのではないでしょうか。越後は往時より京の文化と東北の文化との接点乃至流通ターミナルとしての地点にあり洗練された文化と素朴な詩情とが調和し、融合して出来上がった『美しき曲』として鈴慕が『荘厳な曲』として三谷が越後明暗の代表曲としてあったのではないでしょうか。併し日本列島日本海側の夏も冬も厳しい気象条件と苛酷な生活条件を考えると、之に対する激しい気魂がこれらの曲に内蔵されている筈だと思います。この事は根笹派のコミ吹き、俗曲では津軽ジョンガラの激しさにも云えるのではないでしょうか。本曲奏者の一部では『奥州の曲は陰気に沈んで』と称せられる向きもある様ですが、私には如何してもその様には受け取ることが出来ません。兎に角、未熟な素人の妄想かも知れませんが、洗練された文化、素朴な詩情、激しい気魂の調和を如何に表現するか。如道師の『言い度い事は竹で言え』を胸に刻んで精進し度いと考えて居ります。大方の叱声を乞う次第です。(昭和59年3月2日自修)