黙照と久米幸太郎(日本公許最後の仇討)
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黙照と久米幸太郎(虚無僧をした久米幸太郎)(2016.3.12)

東北地方で最も特色のある仇討は、奥州・宮城県石巻市渡波町祝田で、越後国新発田藩士・久米幸太郎盛治が40年余りを費やし父親の仇討を成し遂げたことが、よく知られています。この仇討について、宮城県牡鹿郡牡鹿町谷川浜中井道にあります曹洞宗光谷山・洞福寺発行の日本公許最後の仇討「黙照と久米幸太郎」と題した小雑誌を石巻市在住の林晃氏よりいただきましたので、ここに紹介します。
黙照という坊さんは、もと滝沢休右衛門という名前の武士でした。休右衛門は新発田藩(新潟県新発田市)五万石、溝口内膳正の家来で御納戸役(今でいう会計係)という係りをつとめ、七十石の俸禄をもらっていました。 久米幸太郎盛治も同じ溝口家の御小姓頭兼御納戸役をつとめて二百五十石の俸禄をもらう久米弥五兵衛の子で、姉一人と弟盛次郎、母違いの弟弥六の四人兄弟の長男でした。事件は今より約180年前の文化14年(1817)十二月二十日(注・新発田藩年譜では十二月二十三日)の夜に起こりました。そのころ、黙照こと休右衛門(41歳)はささいな事に腹をたてて刀を抜き、百姓に傷をおわせた罪でおとがめを受け、妻と二男二女を離縁して、出戻りの妹(30歳)と二人きりで暮らしていましたが、役目を利用しひそかに藩のお金を持ち出して使っていました。この事がいつしか弥五兵衛(41歳)に知られるようになりました。しかし、休右衛門は藩金の使いこみをやめることが出来ず、また、弥五兵衛が曲がったことを何時までも見のがしてくれるような人ではないことを知っていたので、他の人に使いこみを知られないように弥五兵衛を殺す外はないと考えました。そのころの武士の社会では、藩金の使いこみを殿様に知られると、切腹させられるのが普通のきまりで、逃げても場合によっては追手が出され、国中どこに逃げても生きのびることが出来ないこともありました。藩金(今の言葉で言えば公金のこと)の使いこみというのはそれほど重い罪だったのです。その日は昼間から雪が降っていました。休右衛門は昼過ぎに弥五兵衛の家を訪ね、夜おそくまで碁を打ちました。碁の好きな弥五兵衛はたいへん喜んで夕食に酒まで出して休右衛門をもてなし、酒によわい弥五兵衛は気持ちよく酔って、まさか休右衛門が自分を殺しに来たとは思っていませんでしたから油断していました。それを見た休右衛門は刀を抜いて弥五兵衛を切り倒して逃げました。物音におどろいてかけつけた妻にまだ息のあった弥五兵衛は、休右衛門は藩金の使いこみを知られたので私を切ったので碁に負けたからではない。油断していたのが残念である。仇を打ってくれといって死にました。主人が休右衛門に切られたことを知った下男の藤助が、主人の仇を討とうと追いかけましたが休右衛門は逃げて家にはいませんでした。そのころ、休右衛門はすでに城下町の外に出ていたのです。殿様は弥五兵衛が刀を抜かずに切り殺されたのは武士としての心得が足りないとして二百五十石の俸禄を取り上げましたが、幸太郎が大人になるまでは十人扶持(扶持一人は一石八斗)を家族に下げ渡してもよいことにしました。その時、幸太郎はまだ七才、盛次郎は五才、弥六は三才で、敵の休右衛門の顔さえ分からない子供でした。それから一年あまり過ぎて文政二年(1819)二月末のことでした。九才と七才になった幸太郎、盛次郎兄弟を前に母は休右衛門に切られて死んだ父弥五兵衛の最後の様子を聞かせ、仇討ちするように言いました。それから兄弟は武芸を槍の達人であった叔父板橋留六郎に、学問を根来源太夫について一生懸命習いました。この時、まだ幼い弥六は母の言い付けで久米家の菩提寺である城下町の明光寺に入って僧となり、父の菩提をとむらうことになりました。文政十一年(1828)五月、幸太郎は十八才、盛次郎は十五才(新発田藩公文書による)になりました。そこで幸太郎、盛次郎の兄弟は殿様の溝口伯耆守に父弥五兵衛の仇討ち願いと、敵の休右衛門の顔を知っている叔父留六郎(42才)の付き添いを願い出て許されました。殿様はたいへん喜び、父の俸禄の半分百二十五石の扶持を幸太郎に与え、さらに兄弟に刀一振と金百両づつを与えて励まし、幕府に「仇討廻国御免」の許し状(免許状)を貰えるように願い出てくれました。のちに幸太郎が江戸(今の東京)に着いたときに受け取った筒井伊賀守、榊原主計頭の署名のあるその許し状は、幕府が出した最後の仇討免許状だったおいわれています。五月十一日、幸太郎兄弟は叔父留六郎、下男藤助と全国廻国の「六部」に姿を変えて、先ず庄内の鶴岡(山形県)を目指して仇討の旅に出発しました。しかし、そのときの幸太郎にはそれから三十年にもわたる長くて苦しい旅が、いま始まったのだということを考えてもみませんでした。鶴岡に着いた四人は先ず町の八幡宮にお参りして、一日も早く敵の滝沢休右衛門に会えるように祈りました。それから湯殿山、鳴子、涌谷、小牛田、古川と探しまわり、七月十七日に仙台国分町の旅籠(食事もだしてくれる昔の宿屋、今の旅館)に着き、ここで虚無僧に姿を変えました。それは留六郎も藤助も尺八が上手だったからです。のちに幸太郎が尺八の名手として江戸で有名になり、門人数百人といわれましたがそれはこの旅で習い覚えたものでした。やがて、道を南にとり、八月十九日江戸に着き、溝口藩邸について幕府からの「仇討廻国御免」の免許状を手にすることができました。この時江戸藩邸の留守居役川村初治郎のすすめで二手にわかれて敵の休右衛門をさがすことになりました。そこで叔父の留六郎と弟の盛次郎は関西方面に向かいました。江戸に残った幸太郎は宿場の水戸屋久兵衛の世話で槍術指南山本嘉兵衛の下男に住み込み、藤助は近所の荒物屋の荷役取締として働きながら二人で敵をさがすことになりました。西へ向かった留六郎と盛次郎は、途中軍談読みや刀の目きき(鑑定)んどをしながら紀州の和歌山まで行き、そこが諸国の人々で賑わい、いろいろな人が多く出入りするところだと分かったので、才兵衛、才助と名前をかえ、親子だといって紀州藩の家来宮本左太夫の家に小用たしと、ぞうり取りになって住み込み、ひまを見つけては敵をさがしました。幸太郎はその後三年あまり江戸にいて敵を探しました。その間に嘉兵衛に見込まれて槍術を教えられ、また事情を知った熊本細川藩の家来渋川左源治にも槍術、剣術、柔術を教えられ、どちらも上達して免許皆伝を受けました。しかし、荒物屋に藤助は間もなく風邪をひいたのがもとで亡くなってしまい、幸太郎は頼りにしていた相談相手もなくなり、ただ一人で敵をさがさなければなりませんでした。四年目になって幸太郎は、休右衛門が江戸にはいないことが分かり、西に向かって旅立ちました。そして、大津(滋賀県大津市)の近くの松原まで来たとき、旅の疲れではげしい腹痛を起こし、近くに住む親切な百姓に助けられ、すすめられるままにその家に一晩泊まって疲れた体を休めました。その時、その家の老人が幸太郎のことを見抜いて易を立ててくれ、たずね人は、ここよりはるか東か、北の国にいるから引き返して、さがした方がよいと言ってくれました。しかし、幸太郎は、その老人の言葉を信用せず、私は北国の百姓だが親子三人で四国の金毘羅参りにでかけ、事情があって両親にわかれ、今その両親がいるという西国に旅しているのですといって、その家をでました。幸太郎は大坂から船で四国にわたり、高松から金毘羅さまにお参りして一夜お籠りし、一日も早く敵にめぐり会えるように、お祈りしてから四国をさがしまわりました。それから九州にわたり、南は鹿児島、北は壱岐、対馬、五島列島まできまなくさがして豊前小倉(福岡県小倉市)にもどってきました。小倉で口入れ屋の親分に頼んで問屋場の雲助になって休右衛門をさがしました。あるとき熊本の立派な武士を乗せた馬を引いているうちに、あまりに違う今の自分の不運な身の上をかなしみ、望みを失って死のうと思いました。城下はずれの松原に座って腹を切ろうとしたとき、一羽の小鳥が刀の柄にとまって三度ついばんで飛んでいきました。孝太郎は亡くなった父が小鳥になって自分をはげましてくれたのだと思い、気持ちを改めてまた仇討ちの旅に出かけました。長崎に行き、下関から山陰地方(今の島根県、鳥取県)をまわり、また東海道を伊勢(三重県)の古市まで来てしばらくそこにいました。そのころ、留六郎と盛次郎は和歌山県で敵を探すことをあきらめ、京都大坂をさがし、四国に渡り、さらに九州をさがしまわりました。小倉に来て泊まったときの宿改めに来た役人に、すすめられて小笠原藩の武術師範に迎えられました。腕もよく、教え方が親切だったので評判がよくなり、それがねたまれて同じ藩の武術師範が殿様に讒言(ありもしないことを悪く言う告げ口)したので暇を出され、それから中国地方や畿内をまわって草津の温泉に来て泊まりました。そのとき、盛次郎は敵を探す旅に出てからもう二十年にもなる。ここで叔父と別れよう。自分はこれから奥羽路(東北地方のこと)をさがして敵に会えなければ、兄をさがし出して、刺し違えて一緒に死のうと思うといいました。留六郎は、それは浅はかな考えだと盛次郎をいましめましたが、別れてさがすことには賛成しました。そして、自分は信州(長野県)松代にいる親友の岩間民部を訪ね、民部と相談して七里ほど離れた浅間山麓の温泉で長い旅の疲れで弱った体を休めながら髪結い(今の床屋)になり、暮らしを立てながら敵をさがすことになりました。盛次郎も叔父と別れて伊豆(静岡県)、相模(神奈川県)、下総(千葉県)、上野(栃木県)、下野(茨城県)と休右衛門をさがして水戸(茨城県)の友人紫部進太夫を訪ね、その世話で水戸藩の若侍に剣術を教え、殿様に大変信頼されて江戸詰になりました。その前年の春四月、幸太郎は、もう一度京都大坂方面をさがそうとして古市を出発して西に向かいましたが京都近くの品多村で道に迷い、源蔵という親切な42才~3才の夫婦者の家に、自分は医者で長崎からの帰り道で道にまよったのだといって一夜世話になりました。それが縁で幸太郎はその村で医者を開業することになりました。幸太郎には多少医術の心得があったので、京都、大坂に近いここにいれば敵のことも分かるんのではないかと思ったからです。幸い食当たりの若者を、すぐになおしてやったことから腕のよい医者がいるという評判が立ち、遠くからも患者が来るようになりました。孝太郎は安政元年(1854)の正月を品多村で迎えました。そのお正月の年始に来た者のなかに仙台領内名取郡富沢生まれの弥助という者がいました。弥助は自分の若い時、村の娘とかけ落ちして諸国をめぐり、三十一になってここへ落ち着いた。先生は越後の人だというが、私の村の竜沢寺という寺の坊さんも越後の人で常に懐剣を持ち、外出の時、仕込み杖を持ち、他人に会うのを嫌い、檀家の法事も代人をやってつとめさせ、そのうえに、なんでも毎晩寝る所も変えるのだといわれている不思議な坊さんがいますと話しました。幸太郎はその話を聞いた時、その坊さんこそ敵の休右衛門に違いないと思いました。そして、大津の老人の易が正しかったことに気づいておどろきました。孝太郎は源蔵夫婦に、国元の老母が夢に出るので心配だから国に帰るといって別れをつげて品多村を出発しました。そして、このことを叔父や弟にしらせようと思いましたが、その行方も分からないので、取り合えず叔父の親友の岩間民部に聞けば叔父のことが分かるのではないかと思い松代を訪ねました。民部に会った孝太郎は叔父留六郎に会うことができましたが弟の居場所は叔父にもよく分からず、水戸に友人がいると聞いたことがあるから水戸あたりにいるかも知れないといわれました。しかし、一日も早く敵の休右衛門をさがしたいと思う幸太郎は、弟の連絡を叔父に頼んで富沢村に向かいました。そのころ、盛次郎は諸国流浪時代に長崎で外国人から西洋砲術や火薬の製造を習っていたので、その知識を活かして水戸藩で大がかりな大砲や火薬の製造工場をつくっていたのです。幸太郎は富沢村の坊さんが確かに敵の休右衛門に違いないと思いましたが、ひどく不安でした。弥六が国を出たのが二十年近くも前のことです。はたして、その坊さんが今も竜沢寺にいるかどうかも分からなかったからでした。幸太郎が急ぎに急いで富沢村に着いてみると、はたして、その坊さんは六七年前に竜沢寺を出ていなくなっていました。それでも村の者によく尋ねてみると、その坊さんはどうやら今は気仙郡(岩手県)あたりにいるらしいということがわかりました。幸太郎はすぐに気仙郡に行ってみると、気仙郡浜田村の普門寺に名取郡富沢村成就山竜沢寺から来た坊さんがいるが、人に会うのが嫌いであるうえに、ときどき旅に出て寺を留守にする。今も松前(北海道)方面に出かけているということでした。幸太郎は、その話を聞いて、いよいよその坊さんが敵滝沢休右衛門に違いないと思い、すぐにその坊さんの後を追いかけて南部(岩手県)、津軽(青森県)から松前(北海道)に渡り、それから江差、エトロフ(今ロシア領になっている)まで三か月も探して歩きました。そのころの北海道はアイヌ人とわずかな日本人がいるだけの土地でした。人家はほとんど見られず、人がいても言葉が通じない。深い原始林やクマザサの道を分け入り、広い北海道を探しまわることは幸太郎にとって、それは大変に心細い苦しい旅でありました。のちに祝田浜での仇討ちを終えてから、幸太郎は長い三十年間の旅のうちで、この松前からエトロフまでさがして歩いた三か月が最も苦しい旅であったと人に話していたそうです。なんのてがかりもなく幸太郎が浜田村に戻ってきますと、その坊さんは松前に旅に出るまえに、牡鹿郡谷川浜の洞福寺に移っていることが分かりました。幸太郎はすぐに谷川浜に向かいましたが、気仙沼まで来ると、またもや旅の疲れが出たのでしょう。はげしい腹痛が起こり、三週間も寝たきりで苦しみました。気が気でない幸太郎は少し歩けるようになると、ふらふらする足を踏み締めて気仙沼を出発し、石巻まで来ました。病み上がりで体も気持ちも弱っていたのでしょう。幸太郎は石巻の町外れで本物の虚無僧に出会い、作法を知らないといって殴られたそうです。そして、近くにある牧山の梅渓寺に奥州三観音といわれる、ありがたい観音様があることを聞いて、幸太郎は一日も早く敵打ちが出来るようにお祈りしようと山に登りました。一夜お勤めして翌朝、位牌堂に入って見ると、仏壇に父の法名である「雪路院寒月路栄居士」の位牌があるのを見つけました。おどろいた幸太郎は梅渓寺の住職こそ敵の滝沢休右衛門に違いないと早合点し、住職の居間(方丈)に飛び込んで名乗りをあげると、住職は幸太郎の名を呼んで、自分は休右衛門ではないと答えました。自分の名前を呼ばれて、またもおどろいた幸太郎は怪しみながら訳を尋ねると、その住職は自分は僧になった弥六です。二十七才で二本松の少林寺の住職になり、十一年前に火災のあって荒れ果てた、この寺に来て二十五世徳明和尚の跡をついで住職になっている亮道ですとのことでした。二人は不思議な出会いをよろこび、これまでの苦労を話し合い、幸太郎がここに来た事情を話しますと、亮道は洞福寺は、この寺の末寺であるが、そこにいる僧が越後なまりの言葉を話し、日頃、人に会うことを避けているのを不思議に思っていた。その黙照という僧こそ休右衛門でないかと思う。しかし、他人の空似ということもあるから、先ず休右衛門の顔を知っている人に来て貰って確かめるのが先である。黙照のことは末寺の僧だから私がなんとかして引き止めておくからといって、すぐにでも谷川浜に行こうと孝太郎をなだめました。そこで孝太郎は叔父と水戸の弟へしらせの飛脚を出すとともに、安政四年(1857)八月十五日、新発田へ出発しました。新発田には孝太郎の母が七十二才になって兄弟の便りをまちわびていました。殿様も大変よろこんで、すぐ休右衛門の剣術仲間で孝太郎の親戚でもある板倉貞治(72才)を選び、九月二十日に新発田を出発させたので、二人は晦日には石巻に到着しました。もっとも新発田藩では老人の板倉貞治の身を気づかい、作事方の渡辺戸矢右衛門と貞治の末子甚内(18才)をつけ、さらに岩代(福島県)信夫郡代官清野留太夫と郡方付人西沢某の四人をひそかに二人に付けてくれました。そして、この四人は孝太郎が宿を人目の付きやすい石巻から渡波の木村屋に移すと自分たちも同じ渡波の後藤屋与治右衛門方に泊まって仇討ちに備えて二人を見守っていました。渡波に宿を移すと、板倉老人は早速乞食に姿を変えて谷川浜に出掛け、洞福寺の勝手口に立って黙照が休右衛門であることを確かめて戻って来ました。そこで孝太郎と板倉老人は亮道に会い、ここで仇討ちをしたいから黙照を梅渓寺に呼んでもらいたいと頼みました。亮道は洞福寺は末寺であるから黙照を呼びよせることは難しいことではない。しかし、自分は僧である。また、この寺は奥州三観音の一つといわれるありがたい観音様を安置する霊場である。この境内を血でけがすことは避けて、出来るだけはなれた所で仇討ちをして貰いたいと示談して仇討の場所として万石浦の渡し場を渡った祝田浜の海岸沿いの街道を選びました。黙照は新発田を出てからすぐに僧侶に姿を変え、庄内から仙台に来て松音寺という大きな寺に隠れて、そこの弟子となり、三~四年して名取郡富沢村の成就山竜沢寺(原文には竜沢山成就院とあるが誤植かと思われる)の住職になって二十一年を過ごし、それから気仙郡浜田村の普門寺に移り、谷川浜の洞福寺に身を寄せるまで四十一年、その間、いつも刀をそばから離さず、夜毎に寝る場所を変え、人に会うことを避けて少しも心の休まることのない日々を送りながら八十二才になっていました。しかし、見たところでは、いたって元気で六十才位に見えたそうです。しかも、洞福寺の住職は前に仙台の松音寺にいたときに弟弟子でした。黙照にとってこれほど安心して居られる所は、なかったのでしょう。黙照は板倉老人が乞食に姿を変えて、滝沢休右衛門本人であるかどうかを探りに来た日の昼過ぎに頼まれていた折ノ浜の峰耕庵の留守番に出かけていました。そのころ峰耕庵の住職は用事で京都に上がっていて留守だったのです。したがって、本寺梅渓寺の使いの者は最初に谷川浜洞福寺に行き、それから峰耕庵に来て亮道の用件を伝えました。その使いの者が、お寺に用事があるから、すぐに来て貰いたいという亮道の言葉を伝えると、黙照は、なんの疑いも持たず八日に出向くからと答え、その言葉の通り八日の昼過ぎに黙照は梅渓寺に来て用事を済ませ、その夜は梅渓寺に泊まりました。明けて安政四年(1857)十月九日、この日、祝田浜では神明社(五十鈴神社)の屋根の葺き替えが行われ、たくさんの村人が出て働いていました。孝太郎は祝田浜の渡しと岬の中ほどに身をかくし、三十年前、溝口伯耆守からいただいた粟田口広道の目釘を湿して黙照の帰りをまっていました。板倉老人は、そこから五六間はなれた木立のかげに姿をかくして立っていました。新発田藩からの付け人、四人は恐らく黙照の逃げ道をふさいでいたと思われますが、仙台藩の公式文書にも孝太郎の聞き書きにも何も記されていないので分かりません。梅渓寺に一夜泊まった黙照は、それとは知らずに祝田の渡しを渡って浜沿いの帰り道をたどっていました。この日の黙照は茶木綿の綿入れに白木綿の単衣を重ね、紺の絹衣をつけ、袈裟をかけ、甲掛脚絆にわらじをはき、黒絹帽子に木綿更紗の小風呂敷を肩にかけ、柄前の損じた黒塗鞘鉄鍔二尺二寸の刀を木綿袋に入れて背負い、手に一尺三寸の小刀を紙に包んで持っていました。孝太郎が黙照の行く手をふさいで現れ、名乗りをあげると黙照は始めは自分が休右衛門でない。人違いだと弁解しましたが、そこへ板倉老人が現れて話かけると、黙照は逃れられないとみて袈裟衣をぬいで、神明社の幟杭にかけ、帽子もとより小刀を抜いて孝太郎と渡り合いましたが、初太刀を左肩に受けてそのまま倒れ、孝太郎は止めの太刀をさして仇討ちは終わりました。しかし、この仇討ちは幕府が許可した仇討ちでしたから、仇討ちが終わったからといっても、すぐにその場を立ち去ることが出来ず、幕府や仙台藩、新発田藩への届や交渉など、つごのように大変面倒くさい手続きが必要でした。仇討ちが終わると、孝太郎はすぐに祝田浜の肝入治三郎に事の次第を届けました。肝入治三郎は、この事を狐崎の大肝入平塚源兵衛に連絡、平塚源兵衛が石巻会所の代官岩淵伊右衛門に届け出たのは同夜四ツ時(11時頃)になりました。代官は仙台城下の郡奉行に報告する一方、孝太郎、板倉老人の二人を阿部屋旅館に移して丁重に扱い、警護のために足軽二人を付けて置きました。仙台藩では御徒目付二人に御小人目付二人づつ付けて検視のため祝田浜に出張させ、この御徒目付は十三日に到着、良く十四日に幸太郎と洞福寺住職を取り調べて口上書を作って藩に報告し、黙照の死体は塩二俵で塩漬けにして新発田藩の請取人との立ち会い検視にそなえました。仙台藩では、その報告によって幕府に伺いをたて、同寺に新発田藩にも連絡する。十一月二日、新発田藩郡奉行兼御物頭宮北勇五郎(幸太郎の従弟)等上下三十人が引き取りに祝田浜に到着。検視のうえ仙台藩に戻って旅館で新発田藩からの指示を待つ。仙台藩では、その後も何度か新発田藩との文書往復を交わし、幸太郎ら一行及び休右衛門の死体が仙台藩から新発田藩の宮北勇五郎等に引き渡されたのは十一月二十日でした。一方、最初の知らせを受けた叔父留六郎と水戸家から暇を貰って出立した弟の盛次郎は武州(埼玉県)足立郡美如来村で行き逢い、そこへ運よく第二の休右衛門確認の知らせが届き、途中仇討ちの噂を聞きながら十月二十五日夜、祝田浜に着き、幸太郎との再会をよろこび合いました。そして、盛次郎は休右衛門の死体かが新発田藩に引き渡されてから藩の役人に願って恨みの一刀を休右衛門の、のどに加えたといわれています。また、谷川浜の洞福寺からも新発田藩の役人に死体の下げ渡しの願いが出されたので、これも承諾され、十三両余りの金子と所持品も添えて下げ渡されました。ただし、大小二振りの刀と着物一枚は幸太郎が父弥五兵衛の墓に供えるために取り除き、板倉老人は昔の同僚休右衛門の供養料として金一両を洞福寺に差し出しました。十一月二十に日、幸太郎等一行はお世話になった人々に、それぞれ金子等贈って謝礼を述べ、すべての手続きを終えて渡波を出発、仙台では二十四日から二十六日まで滞在し、仙台藩の丁重なもてなしを受け、藩主も使者をもって幸太郎等をねぎらい、幸太郎に羽二重三疋、銀子十枚、盛次郎に同二疋、銀子三枚、板倉貞治に同二疋、銀子二枚、その他の者にもそれぞれ応分の銀子が下されました。二十七日、幸太郎等は新発田に向け出発しました。人生の最もはなやかな半生を仇討ちに費やした幸太郎は藩主溝口主膳正から厚く、その労をねぎらわれた上に禄三百石、盛次郎に禄百石を賜りました。また、板倉貞治にも七十石の加増がありました。幸太郎は四十七才になっていました。この年に妻まつを迎え、一子三輔をもうけましたが、間もなく明治維新となり、禄をはなれた幸太郎は東蒲原郡日出屋村退き、旅館「日出屋」を三輔に経営させ、自分は養豚業や黒漆細工などの事業を起こしましたが、いずれも失敗して諸国遊歴の旅に出ました。明治二十三年、病にかかって日出屋村に戻り、翌二十四年(1891)二月五日、八十一才の天寿を全うして亡くなりました。法名は長寿院深入淡水大居士と言いますが、その淡水は京都近くの品多村で医者をやっていた時の幸太郎の名前でした。三輔も後に医者となり大正四年(1915)に病死しています。妻まつこと蓮生院貞節妙信大姉は慶応三年(1867)八月五日に亡くなりました。
この小雑誌は平成5年10月9日に発行された、ものです。
滝沢休右衛門こと少峯黙照和尚の墓は今、洞福寺の歴代住職の墓地にあります。この小雑誌の後記に出典として、下記のように書かれています。
この文は 大正十四年(1925)四月二十七日から河北新報に富田記者が二十四回にわたって書いたものをやさしく書き直したものです。富田記者は石巻の郷土史家高橋鉄牛より、直接久米幸太郎に何度も会って、その苦労を苦労話を聞いた祝田浜の千葉寛斎という人が書き留めた「祝田濱復讐録」(美濃紙表紙49枚、毛筆書)と「祝田報仇実明傳」(同57枚、同)を借り、同じ郷土史家の佐藤露江などの話も聞き、また祝田浜の古老の話や幸太郎自筆の和歌六首の掛け軸を所有している阿部作治区長の案内で仇討ち場所等を案内されて書いたと言います。資料の「祝田濱復讐録」は主として公文書及び身柄引き受けにきた新発田藩士にたいする仙台藩の接待や細々とした食事献立まで書かれており、「祝田報仇実明傳」は幸太郎の三十年間にわたる諸国流浪中の実際の出来事が書かれています。鉄牛氏が奇跡的に屑屋の屑籠から収拾したものだそうです。

久米幸太郎が愛用した尺八・二葉園(2016.3.12)

虚無僧研究会の機関紙・一音成仏第三号に大川千山氏が実録・虚無僧久米幸太郎の仇討と題して記事を投稿されています。その記事を紹介します。
久米幸太郎が愛用した尺八は、虚無僧の際、親交を結んだ宮城県増田の布袋軒の佐藤淡水という虚無僧に進呈したという。彼は幸太郎の法名である「淡水」を、幸太郎の死後受け継ぎ、二代目として佐藤淡水を名乗ったものと思われる。その後、この尺八は三代目小梨錦水、四代目後藤桃水、そして現在五代目菊池淡水に受け継がれている。筆者は、製管の勉強もしているので、菊池淡水先生にお願いした処、心よく承諾して戴きその尺八を拝見した。銘「二葉園」、長さ一尺三寸五分、太さ一寸、中国唐時代の作との事であった。早速吹かせて戴いた処、何とも言えぬ崇高な気分に襲われた。この尺八が、幸太郎と伴に長い間旅をし、様々な境遇を一緒に潜り抜けて来たのかと思うと感慨深く、言葉で何と表現したらよいか分かりませんでした。淡水師は、この「二葉園」尺八を用い、この名笛に因縁のある人々の霊を慰める為、また、この名笛と、これにまつわる物語を後世に伝える為、「渡波鈴慕う」という曲を作って居られた。(昭和57年4月15日発行の記事より)
東芝から発売されたレコード・表紙は民謡の名前の命名者、後藤桃水師。
このレコードの渡波鈴慕について作曲者の菊池淡水師が解説されています。
普化尺八・渡波鈴慕(わたのはれいぼ)二葉園(一尺四寸管)
渡波鈴慕について今を遡る百五十年前、文化十四年十二月、越後新発田藩、溝口家の家臣、久米弥五兵衛は、同藩士滝沢休右衛門と囲碁のことから争いになり、遂に殺害された。七才の幸太郎、五才の盛次郎は遺児となり、悲しい年月を送ったが、十一年後に、兄幸太郎は十八才、盛治と名乗り、次いで弟盛次郎は十六才、盛盈と名乗って、元服をすると同時に藩主の許しを得て、父の仇討ちの途に上がったのであった。文政十一年と誌されている。二人の兄弟は虚無僧となり、また金毘羅詣りと姿を変えて、諸国を、仇敵を求めて探し廻ること三十年、奥州路入ったある日、牡鹿郡谷川の洞福寺に一夜の宿を乞うた。ところがこの寺の老僧が、二人の探し求める仇敵の絵姿に似ていることに驚いた。然し、絵姿だけでは仇と判断することが出来ず、そのまま郷里に帰った二人は、仇の顔を知っている者を伴い、再び、同地に来て、ひそかに首実検の上、洞福寺の老僧、黙照こそ、四十余年の恨み重なる仇敵、滝沢休右衛門と分かり、久米幸太郎兄弟は、茲に時節到来を喜んだ、洞福寺に世をしのぶ仇の滝沢休右衛門が渡波祝田の船場の近くを通りかかった時、久米兄弟は躍り出て、見事に仇を討ちとり孝の道を果たした。時に安政四年十月九日と伝えられる。後、兄の久米幸太郎と知り合った佐藤淡水(小梨錦水の師)が幸太郎から愛用の名笛を譲り受けた。更に、我が民謡の名づけ親、後藤桃水翁が譲り受け、翁が七十七才の喜寿の祝の昭和三十二年二月四日、仙台市公会堂に於いて、先年世を去られた普化尺八の権威者であった浦本政三郎博士ご夫妻、現日本郷土民謡協会副理事長の青木好月氏始め、多数列席の会場で、桃水翁の高弟菊池淡水氏が、この名笛を譲り渡され、この名笛五代目の持ち主となったのであった。尚この名笛には「二葉園」の銘があります。渡波の仇討の際、たまたま、ここを通り合わせた桃水翁の祖父、小太郎が竹の葉陰に忍んで、この仇討ちを逐一見届けたというが、桃水翁とは縁の深い名笛でもある。桃水翁が世を去られて十年、菊池淡水氏が今は地下に眠る桃水翁始め、この名笛に因縁のある人々の霊を慰める為、また、この名笛と、これにまつわる物語を後世に伝える為、作曲され、この曲に、久米幸太郎兄弟の本懐を遂げられた地名を冠し、「渡波鈴慕」と
名づけた。その名笛をもって作曲者菊池淡水氏の吹奏による一曲、これが「わたのはれいぼ」である・明頭来や、明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打。(所要時間三分三十三秒)
 
渡波鈴慕のレコード(クリックで画像を拡大)