古管尺八について
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その1)2020.5.23
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その2)
重要文化財の八雲本陣を見学。数年前に料理長も高齢になり旅館は廃業したとのことでした。「八雲本陣」の由来・城下町松江から宍道湖の南岸沿いに西へ車で三十分、昔は宿場町として賑わった宍道町の中央部に、”歴史の宿””味の宿”として知られる「八雲本陣」があります。ここは出雲地方屈指の旧家、木幡家の大邸宅を戦後、旅館として開放したもので、「八雲本陣」の屋号は、木幡家が松江藩主の藩内巡視や出雲大社参詣の折りの本陣を勤めたことに由来します。明治四十年には東宮殿下(大正天皇)、昭和五十七年には天皇陛下お立ち寄りの光栄に浴しました。宍道木幡は箒がいらぬ、嫁や姑の裾で掃く。これは明治、大正の頃に歌われた当地方の俚謡の一節ですが、家族の婦人たちが打掛の長袖をひいていた暮らしぶりと、屋敷の広さを伝えています。敷地千二百坪の邸宅のうち、享保十八年(1733)建築の母屋は、地主住宅に本陣機構を兼ね備えた江戸中期の代表的な民家として、昭和四十四年に国の重要文化財に指定されました。なお、当本陣伝来の書画、陶磁、漆器、文房具など古美術の数々は近くの「宍道町蒐古館」に四季折々、趣向を変えながら展示されています。家伝料理「鴨の貝焼」八雲本陣を「味のやど」として一躍有名にしたのが、家伝料理「鴨の貝焼」です。晩秋から冬にかけて宍道湖に飛来する野鴨の肉を、大きなアワビの貝を鍋にして、大根、ネギ、セリ、牛蒡、きのこ、里芋などの季節の野菜といっしょに煮て食べる野趣に富んだ料理です。鴨は当地に飛来する十三種のうち最も美味な四種類の鴨のみを用いますが、鴨肉の吟味と家伝の秘法で調合した出汁に、味の秘密が隠されています。幽邃閑雅な席庭に中で、昔ながらの調度、器物に囲まれて、ぜひ出雲の代表的な味覚をお楽しみ下さい。
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その3)
◎重文「八雲本陣」(木幡家住宅)解説
「八雲本陣」と呼ばれる木幡(こわた)家は、松江市宍道町の中心部にあり、江戸時代は松江藩の下郡(したごおり)役をつとめる一方、藩主が出雲大社参詣や簸川平野の鷹狩り、奥出雲の紅葉見物などに出かける際の本陣宿を勤めました。敷地約千坪、部屋数40を超える宏大な屋敷のうち、旧山陰道に面した母屋は享保18年(1733)の建築で、出雲地方を代表する貴重な町家建築として昭和44年(1969)国の重要文化財(構造物)に指定されいます。
二つの御成門
東西50mに及ぶ白壁黒板塀の中央部、ベンガラ塗り格子造りの玄関は日常の通用口で、東西には二つの御成門があります。屋根付きの門は殿様用で、駕籠で来た藩主はこの門から庭に入り、書院の縁先で駕籠を降りて座敷に上がりました。昭和57年島根国体のために来県された昭和天皇がお立ち寄りになったときは、この門の前でお車から降り、徒歩でお入りになりました。もう一つの冠木(かぶき)門は、明治40年(1907)5月26日、皇太子殿下(のちの大正天皇)がお越しになった時の門で、御召の馬車を乗り入れ、御便殿「飛雲閣」にお上がりになりました。門の内側に亭々と聳える松は随行の東郷平八郎海軍大将が記念植樹されたものです。
臼庭と吹き抜け天井
玄関に入って縄暖簾を分けると、広い臼庭(土間)があり、大きな梁が交差する吹き抜け天井、麻綱を手繰って開閉する引き窓の雨障子、壁に掛け並べた火消し道具が目に入ります。火消し道具は旧藩時代に木幡家が抱えていた私設消防隊の遺物です。長柄の大きな団扇は「まとい」として火事場に携行したもの。雨障子の青海波お文様は雨風で傷まないようにロウを溶かして描いています。縄組みの欄間、黒塗りの格子戸などと共に先人の美意識を見ることが出来ます。
書院ー藩主の間
臼庭から式台に上がると、昔は番頭、手代が机を並べていた「店の間」に続いて、10畳と6畳二間続きの「書院の間」があります。これが本陣宿をした当時、藩主の居間にあてた部屋です。床柱の上部に埋め木の跡があるのは天保14年(1843)、藩内にきびしい倹約令がしかれたとき、長押(なげし)を取り払った跡です。二間を仕切る襖の「猛虎図」は鳥取藩お抱えの絵師土方稲嶺の作。ケヤキ一本彫りの欄間「麻の葉透かし花龍図」は名工小林如泥に師事して出藍の誉れを傳した梶谷東谷軒(加茂町)の大作として知られています。
家老旭丹波の間
「主人の間」「仏間」を通って展示ケースを左折すると「丹波の間」があります。これは7代藩主松平不昧公に仕えて藩財政再建に貢献した家老朝日丹波の旧邸(松江藩北殿町)の一部を明治5年に譲り受けて移築したもので、縁前に据えた四角い手水鉢は鎌倉時代の宝篋印塔の笠石を見立て使いした名物の古手水鉢です。正面築山の植え込みの中に立つ灯籠は鎌倉型の古格をもつ当地方きっての古灯籠であり、その前に据えた小牛のような大天水鉢は昔、摂津の御影から酒樽を組んだ筏に載せて海路はるばる持ち帰ったもので、藩主不昧公が涎を垂らして所望された故事から「不昧公お好み片袖の手水鉢」と申し伝えています。
大正天皇御便殿「飛雲閣」
更に奥へ進んで10畳二間続きの上段の間は、明治40年大正天皇が皇太子のみぎり、山陰行啓にあたり御昼食を差し出すため新築したもので、随行の東郷平八郎海軍大将から「飛雲閣」と命名されました。設計は当主の13代久右衛門黄雨自らがあたり、用材、調達なども東京、京阪神まで足を運んで調達するなど心血を注いで完成に漕ぎつけました。欄間は明治、大正時代に木象嵌の名手として知られた松江市内出身の青山泰石の作。表に「舞楽籣陵王之図」、裏に「波に千鳥之図」と、ケヤキ一枚板に表裏図柄を異にするところに泰石の特技が見られます。
「八雲本陣」と呼ばれる木幡(こわた)家は、松江市宍道町の中心部にあり、江戸時代は松江藩の下郡(したごおり)役をつとめる一方、藩主が出雲大社参詣や簸川平野の鷹狩り、奥出雲の紅葉見物などに出かける際の本陣宿を勤めました。敷地約千坪、部屋数40を超える宏大な屋敷のうち、旧山陰道に面した母屋は享保18年(1733)の建築で、出雲地方を代表する貴重な町家建築として昭和44年(1969)国の重要文化財(構造物)に指定されいます。
二つの御成門
東西50mに及ぶ白壁黒板塀の中央部、ベンガラ塗り格子造りの玄関は日常の通用口で、東西には二つの御成門があります。屋根付きの門は殿様用で、駕籠で来た藩主はこの門から庭に入り、書院の縁先で駕籠を降りて座敷に上がりました。昭和57年島根国体のために来県された昭和天皇がお立ち寄りになったときは、この門の前でお車から降り、徒歩でお入りになりました。もう一つの冠木(かぶき)門は、明治40年(1907)5月26日、皇太子殿下(のちの大正天皇)がお越しになった時の門で、御召の馬車を乗り入れ、御便殿「飛雲閣」にお上がりになりました。門の内側に亭々と聳える松は随行の東郷平八郎海軍大将が記念植樹されたものです。
臼庭と吹き抜け天井
玄関に入って縄暖簾を分けると、広い臼庭(土間)があり、大きな梁が交差する吹き抜け天井、麻綱を手繰って開閉する引き窓の雨障子、壁に掛け並べた火消し道具が目に入ります。火消し道具は旧藩時代に木幡家が抱えていた私設消防隊の遺物です。長柄の大きな団扇は「まとい」として火事場に携行したもの。雨障子の青海波お文様は雨風で傷まないようにロウを溶かして描いています。縄組みの欄間、黒塗りの格子戸などと共に先人の美意識を見ることが出来ます。
書院ー藩主の間
臼庭から式台に上がると、昔は番頭、手代が机を並べていた「店の間」に続いて、10畳と6畳二間続きの「書院の間」があります。これが本陣宿をした当時、藩主の居間にあてた部屋です。床柱の上部に埋め木の跡があるのは天保14年(1843)、藩内にきびしい倹約令がしかれたとき、長押(なげし)を取り払った跡です。二間を仕切る襖の「猛虎図」は鳥取藩お抱えの絵師土方稲嶺の作。ケヤキ一本彫りの欄間「麻の葉透かし花龍図」は名工小林如泥に師事して出藍の誉れを傳した梶谷東谷軒(加茂町)の大作として知られています。
家老旭丹波の間
「主人の間」「仏間」を通って展示ケースを左折すると「丹波の間」があります。これは7代藩主松平不昧公に仕えて藩財政再建に貢献した家老朝日丹波の旧邸(松江藩北殿町)の一部を明治5年に譲り受けて移築したもので、縁前に据えた四角い手水鉢は鎌倉時代の宝篋印塔の笠石を見立て使いした名物の古手水鉢です。正面築山の植え込みの中に立つ灯籠は鎌倉型の古格をもつ当地方きっての古灯籠であり、その前に据えた小牛のような大天水鉢は昔、摂津の御影から酒樽を組んだ筏に載せて海路はるばる持ち帰ったもので、藩主不昧公が涎を垂らして所望された故事から「不昧公お好み片袖の手水鉢」と申し伝えています。
大正天皇御便殿「飛雲閣」
更に奥へ進んで10畳二間続きの上段の間は、明治40年大正天皇が皇太子のみぎり、山陰行啓にあたり御昼食を差し出すため新築したもので、随行の東郷平八郎海軍大将から「飛雲閣」と命名されました。設計は当主の13代久右衛門黄雨自らがあたり、用材、調達なども東京、京阪神まで足を運んで調達するなど心血を注いで完成に漕ぎつけました。欄間は明治、大正時代に木象嵌の名手として知られた松江市内出身の青山泰石の作。表に「舞楽籣陵王之図」、裏に「波に千鳥之図」と、ケヤキ一枚板に表裏図柄を異にするところに泰石の特技が見られます。
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その4)
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その5)
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その6)
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その8)
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その9)
平成27年6月8日に再度、八雲本陣を訪問しました。すでに蒐古館は閉館になり、美術品や尺八は木幡家が管理されているとのことでした。今回は、ジャスティン泉龍氏が訪問された時の写真に、津軽錦風流尺八の楽譜の写真があったので、この楽譜の確認と古管尺八を拝見に出かけました。楽譜については、別に掲載していますように、青森県弘前市郊外浪岡の本郷に出かけて鎌田家を探しました。古管尺八は、試し吹きをさせてもらい、音味は録音して帰りました。この様な古管尺八は、奏法によって素晴らしい響きを出します。現代管を吹くような奏法では、とてもこの古管の音味は知ることが出来ません。現代管のように、大きな音で相手に音を押し付けるのではなく、このような古管は聞く人が音味に引き寄せられます。まさに名管ばかりです。
八雲本陣・木幡吹月師の蒐集された尺八(その10)
元祖琴古先生作銘管「雲上律」中塚竹禅居士著(雑誌三曲より)(その1)
琴古流宗家竹友社で活躍されました中塚竹禅師が昭和9年12月号に「雲上律」について投稿された記事をここに参考までに掲載します。
(雑誌三曲の記事)
奇跡!流祖自作の竹出現。
世の中には奇跡というものが必ずある。人智人力を超越したる魔訶不思議な現象、理屈上あるべからず現象を奇跡といふ。流祖琴古先生の竹が今現に世の中に出たからとてソレが奇跡だといふのではありません。流祖没後僅かに百六十五年、其竹はまだ日本のドコかの隅に保管されて居るかも知れないのであるから、ソレが不意に思ひも寄らざる所へ忽然と現れたからとて、ソレが決して不思議でも奇跡でもありません。ソレは寧ろ頗る当然な事、当然有り得べき事又
当然あらざるべからず事であります。寧ろ現はれないのが不思議な位で、私はトウから此事あるを予期して居つた位であります。現に慈恵大学の浦本浙潮博士などは流祖の竹であるや否やは別問題として兎に角「琴古の竹」と称するもの二本持って居られるし、此外まだ他にも持って居る人あるといふ事であり、現に私の門人で琴の字の焼印のある竹を二本持って居る者が居ります。(琴古の竹と称する管名残月外一管正八寸の極細い延べ竹)兎に角百六十五年やソコラの短日月で流祖の竹が全然此世から消え失せるといふ事は恐らくなかろうと思ひますから、あるならイツか必ず出て来るに違ひないといふ事は誰でも考へる事、私も必ず今に出て来るだろうとは思ふて居りました。案の掟出ました。而も立派な竹が出ました。コレハ次の項で御紹介しますが、出たからとて決してソレが奇跡だといふのではありません。案の掟即ち予想通り出たのですから奇跡でも何でもありません、然し奇跡的といふ事は出来ませう、イヤ、ソンナ言葉の上の爭ひはドウでもよろしい兎に角今まで吾琴古流に流祖琴古先生の竹といふものが一本も無かったのに、ソレが今度出たといふ事になると之は当流に取って容易ならざる大事件である事は言ふまでもない事であります。先には長崎の清田章童氏に依って吉田一調先生の「法器尺八曲譜」が忽然と世の中へ出て琴古流の琴古流たる所以を明らかにする事が出来ました。今又流祖自作の竹が現はれて流祖の芸術を直接見たり聞いたりする事が出来るようになりました。何と喜ばしい話ではありませんか。私は全く夢ではないか夢では困ると思って今でも此流祖の竹を寸時も身辺を離さぬようシツカリと堅く握り〆めて居りますが先ず先ず夢では無さソウである。確に今私の手に保管されて居るのだから断然間違はありません。之れは繰返して云ふようですが立派に琴古流の歴史を飾るべき一大事件なのであります。今まで流祖の竹といふものを恐らく見た人はありますまい。前記の浦本博士の竹及び私の門人の竹にしてからが「琴古の竹」には間違いありますまいが然し流祖の竹であるかドウかは証明の方法が無かろうかと思ひます。従って流祖の芸術がドンナであったか、ドンナ吹き方をされたものか、従って芸術家としての実力がドノ位であったかといふような事は皆目判らなかった訳であります。加之偶々浦本博士御所蔵の竹及び私の門人所蔵の竹が何れも比較的細管であるが為めに流祖琴古先生は比較的細い竹を好まれたお方であると実は今の今まで思って居た事でありました。然るに此予想は全然覆されました。何しろ今度現はれた竹といふものは素晴らしい大きな長い竹で、トテモ普通の吹き方では全然音が出ません。ヨシ又音がドウにか出るにしてからが所謂充実した、力の籠った、尺八らしい音を出すといふ事は中々容易な事ではないといふツマリ尺八としては慥に一種の怪物、コンナ怪物みたいなような竹を流祖が作り且つ吹かれたとなると全く之れは只事ではありません。従来の流祖観は完全に此竹の出現に依って覆されました。ソコデ新しい眼で流祖を今一度見直さなくてはならぬといふ事になったのであります。然し此流祖の再検討といふ事は中々の大問題でもあり且又本文の目的でもありませんから後日に保留致しまして兎に角此流祖の竹が現はてた事が奇跡でないとしたら一体何が奇跡であるかといふ事であります。外でもない、此竹が人もあらうに特に私の手にハイツたといふ事、之れが即ち奇跡であります。ナゼ私の手にハイツたか、之れは判りません。恐らく誰にも判りますまい。之が即ち奇跡の奇跡たる所以です。理屈で判らない摩訶不思議な現象、之れが奇跡です。即ち去る十月二十八日、私は新宿の或道具屋で極く手軽な方法で此竹を手に入れました。此手引きをしてくれたのが私の門人川勝要一であります。之れは同人の名誉の為めに特に姓名を記して置きます。従来とても思ひ掛けない不意な出来事即ち所謂奇跡的な事に廔々出会して居る私でありますが今度といふ今度は全く驚きました。苟くも流祖の銘管が手に入るなどいふ事はトテモ夢にすら見る資格のない私でありました。然るに極くホンノ一寸したハズミと言ひますか兎に角易々と手に入れる事が出来たといふ事は之れはドウしても奇跡と申すより外に言葉がありません。御承知の通り新宿の大通は一時間に何万人といふ人が通る所です。道具屋の店先に出て居る尺八、而も飛放れて偉大な尺八、古風な袋にハイツた飴色に黒光りのする二尺五寸の大管、尺八に縁のない人が見ても之れは何か相当な由緒ある竹に違ひないと直感する筈です。而も一時間何万人といふ通行人の内から直接此竹を手に取って見た人がドノ位あったかソレハ判りませんが兎に角余程沢山な人が此竹お見た筈です。見たが然し買はなかった。之れが第一不思議です。ソレから其道具屋の極く近くに尺八商店がある。ソコの主人にも此竹を見せたソウだが之れも買はなかった。ソレから之れはアトで判った話ですが私の友人で、オレも見た僕も見たといふ人が相当出て来ました。其友人達も見た事は見たがトウトウ買はなかったコンナ具合でトウトウ此銘管が片々たる私の手に易々とハイる事になったのでありますが、兎に角斯様な訳でありますから之れは全く奇跡でありませう。何が神をして私に此流祖の銘管を授けさせたか、ソレハ到底判りませんが兎に角奇跡はドコまでも奇跡に違ひありません。奇跡でありますから神様の外には誰も知らない、先ずソウいふ事に致して置きませう。ソコで神様即ち天地創造の神が特に私に此銘管を下された。此目に見えない力、理屈で解けない奇跡を今一度私の頭でコントロールすると、ソコにはドウしても物の生命、物に宿る神の姿なるものがあるといふ事を自ら悟るのであります。換言すれば物は生きて居る。物と雖も神の分身である。神の心の一つの現れが物の姿である。だから物は人間と同じように呼吸をして居る。何百年とか何千年とかいふ生命を維持する物はソレだけ勝れた生命、勝れた力を持って居る。物は所謂一個の物質でなくて生命を宿した立派な生物である。新様な事が観ぜられるのであります。ですからして物を粗末にする事であり物を馬鹿にするといふ事は結局天地創造の神を馬鹿にする事であります。唯物論的に物を見てはいけません。殊に尺八の場合は尚更然りです。尺八は一個の楽器であるといったような調子で色女とフザケながら面白半分、冗談半分で吹くような人が若しあるとしたら天罸立所に到るものである事を覚悟せねばなりません。外の物は兎も角、尺八に対しては精進潔斎、眼中自他の区別なく、胸中に誠心の二字を潜め息は一切の冗談を戒め、所謂明鏡止水の心、光風清月の態度を以てすべきである。穢れたる心を以て尺八に対すべからず。穢れたる手を以て尺八を持つべからず。穢れたる所に尺八を置くべからず。今私は此流祖の竹が立派に生きて居つて私に話掛けて居る事を皆さんにお知らせしたいのであります。脈々として波打つ此竹の心臓の鼓動をお聞かせしたいのであります。流祖の意思、流祖の理想、流祖の魂が籠って居る此竹、此竹が計らずも私の手に入った事は先程から申す通り全く一つの奇跡でありますが、更に進んで何故此奇跡が現はれたかを考える時に私は思わず襟を正して端座瞑目、心に精進潔斎を誓はねばならぬ衝動に驅られるといふ事を皆さんに申し上げたいのであります。
(雑誌三曲の記事)
奇跡!流祖自作の竹出現。
世の中には奇跡というものが必ずある。人智人力を超越したる魔訶不思議な現象、理屈上あるべからず現象を奇跡といふ。流祖琴古先生の竹が今現に世の中に出たからとてソレが奇跡だといふのではありません。流祖没後僅かに百六十五年、其竹はまだ日本のドコかの隅に保管されて居るかも知れないのであるから、ソレが不意に思ひも寄らざる所へ忽然と現れたからとて、ソレが決して不思議でも奇跡でもありません。ソレは寧ろ頗る当然な事、当然有り得べき事又
当然あらざるべからず事であります。寧ろ現はれないのが不思議な位で、私はトウから此事あるを予期して居つた位であります。現に慈恵大学の浦本浙潮博士などは流祖の竹であるや否やは別問題として兎に角「琴古の竹」と称するもの二本持って居られるし、此外まだ他にも持って居る人あるといふ事であり、現に私の門人で琴の字の焼印のある竹を二本持って居る者が居ります。(琴古の竹と称する管名残月外一管正八寸の極細い延べ竹)兎に角百六十五年やソコラの短日月で流祖の竹が全然此世から消え失せるといふ事は恐らくなかろうと思ひますから、あるならイツか必ず出て来るに違ひないといふ事は誰でも考へる事、私も必ず今に出て来るだろうとは思ふて居りました。案の掟出ました。而も立派な竹が出ました。コレハ次の項で御紹介しますが、出たからとて決してソレが奇跡だといふのではありません。案の掟即ち予想通り出たのですから奇跡でも何でもありません、然し奇跡的といふ事は出来ませう、イヤ、ソンナ言葉の上の爭ひはドウでもよろしい兎に角今まで吾琴古流に流祖琴古先生の竹といふものが一本も無かったのに、ソレが今度出たといふ事になると之は当流に取って容易ならざる大事件である事は言ふまでもない事であります。先には長崎の清田章童氏に依って吉田一調先生の「法器尺八曲譜」が忽然と世の中へ出て琴古流の琴古流たる所以を明らかにする事が出来ました。今又流祖自作の竹が現はれて流祖の芸術を直接見たり聞いたりする事が出来るようになりました。何と喜ばしい話ではありませんか。私は全く夢ではないか夢では困ると思って今でも此流祖の竹を寸時も身辺を離さぬようシツカリと堅く握り〆めて居りますが先ず先ず夢では無さソウである。確に今私の手に保管されて居るのだから断然間違はありません。之れは繰返して云ふようですが立派に琴古流の歴史を飾るべき一大事件なのであります。今まで流祖の竹といふものを恐らく見た人はありますまい。前記の浦本博士の竹及び私の門人の竹にしてからが「琴古の竹」には間違いありますまいが然し流祖の竹であるかドウかは証明の方法が無かろうかと思ひます。従って流祖の芸術がドンナであったか、ドンナ吹き方をされたものか、従って芸術家としての実力がドノ位であったかといふような事は皆目判らなかった訳であります。加之偶々浦本博士御所蔵の竹及び私の門人所蔵の竹が何れも比較的細管であるが為めに流祖琴古先生は比較的細い竹を好まれたお方であると実は今の今まで思って居た事でありました。然るに此予想は全然覆されました。何しろ今度現はれた竹といふものは素晴らしい大きな長い竹で、トテモ普通の吹き方では全然音が出ません。ヨシ又音がドウにか出るにしてからが所謂充実した、力の籠った、尺八らしい音を出すといふ事は中々容易な事ではないといふツマリ尺八としては慥に一種の怪物、コンナ怪物みたいなような竹を流祖が作り且つ吹かれたとなると全く之れは只事ではありません。従来の流祖観は完全に此竹の出現に依って覆されました。ソコデ新しい眼で流祖を今一度見直さなくてはならぬといふ事になったのであります。然し此流祖の再検討といふ事は中々の大問題でもあり且又本文の目的でもありませんから後日に保留致しまして兎に角此流祖の竹が現はてた事が奇跡でないとしたら一体何が奇跡であるかといふ事であります。外でもない、此竹が人もあらうに特に私の手にハイツたといふ事、之れが即ち奇跡であります。ナゼ私の手にハイツたか、之れは判りません。恐らく誰にも判りますまい。之が即ち奇跡の奇跡たる所以です。理屈で判らない摩訶不思議な現象、之れが奇跡です。即ち去る十月二十八日、私は新宿の或道具屋で極く手軽な方法で此竹を手に入れました。此手引きをしてくれたのが私の門人川勝要一であります。之れは同人の名誉の為めに特に姓名を記して置きます。従来とても思ひ掛けない不意な出来事即ち所謂奇跡的な事に廔々出会して居る私でありますが今度といふ今度は全く驚きました。苟くも流祖の銘管が手に入るなどいふ事はトテモ夢にすら見る資格のない私でありました。然るに極くホンノ一寸したハズミと言ひますか兎に角易々と手に入れる事が出来たといふ事は之れはドウしても奇跡と申すより外に言葉がありません。御承知の通り新宿の大通は一時間に何万人といふ人が通る所です。道具屋の店先に出て居る尺八、而も飛放れて偉大な尺八、古風な袋にハイツた飴色に黒光りのする二尺五寸の大管、尺八に縁のない人が見ても之れは何か相当な由緒ある竹に違ひないと直感する筈です。而も一時間何万人といふ通行人の内から直接此竹を手に取って見た人がドノ位あったかソレハ判りませんが兎に角余程沢山な人が此竹お見た筈です。見たが然し買はなかった。之れが第一不思議です。ソレから其道具屋の極く近くに尺八商店がある。ソコの主人にも此竹を見せたソウだが之れも買はなかった。ソレから之れはアトで判った話ですが私の友人で、オレも見た僕も見たといふ人が相当出て来ました。其友人達も見た事は見たがトウトウ買はなかったコンナ具合でトウトウ此銘管が片々たる私の手に易々とハイる事になったのでありますが、兎に角斯様な訳でありますから之れは全く奇跡でありませう。何が神をして私に此流祖の銘管を授けさせたか、ソレハ到底判りませんが兎に角奇跡はドコまでも奇跡に違ひありません。奇跡でありますから神様の外には誰も知らない、先ずソウいふ事に致して置きませう。ソコで神様即ち天地創造の神が特に私に此銘管を下された。此目に見えない力、理屈で解けない奇跡を今一度私の頭でコントロールすると、ソコにはドウしても物の生命、物に宿る神の姿なるものがあるといふ事を自ら悟るのであります。換言すれば物は生きて居る。物と雖も神の分身である。神の心の一つの現れが物の姿である。だから物は人間と同じように呼吸をして居る。何百年とか何千年とかいふ生命を維持する物はソレだけ勝れた生命、勝れた力を持って居る。物は所謂一個の物質でなくて生命を宿した立派な生物である。新様な事が観ぜられるのであります。ですからして物を粗末にする事であり物を馬鹿にするといふ事は結局天地創造の神を馬鹿にする事であります。唯物論的に物を見てはいけません。殊に尺八の場合は尚更然りです。尺八は一個の楽器であるといったような調子で色女とフザケながら面白半分、冗談半分で吹くような人が若しあるとしたら天罸立所に到るものである事を覚悟せねばなりません。外の物は兎も角、尺八に対しては精進潔斎、眼中自他の区別なく、胸中に誠心の二字を潜め息は一切の冗談を戒め、所謂明鏡止水の心、光風清月の態度を以てすべきである。穢れたる心を以て尺八に対すべからず。穢れたる手を以て尺八を持つべからず。穢れたる所に尺八を置くべからず。今私は此流祖の竹が立派に生きて居つて私に話掛けて居る事を皆さんにお知らせしたいのであります。脈々として波打つ此竹の心臓の鼓動をお聞かせしたいのであります。流祖の意思、流祖の理想、流祖の魂が籠って居る此竹、此竹が計らずも私の手に入った事は先程から申す通り全く一つの奇跡でありますが、更に進んで何故此奇跡が現はれたかを考える時に私は思わず襟を正して端座瞑目、心に精進潔斎を誓はねばならぬ衝動に驅られるといふ事を皆さんに申し上げたいのであります。
元祖琴古先生作銘管「雲上律」中塚竹禅居士著(雑誌三曲より)(その2)
銘管「雲上律」の解説
イ.全長二尺四寸七分五厘
ロ.唄口外径一寸四分五厘 唄口内径一寸一分
ハ.管尻外径一寸九分 管尻内径八分
ニ.首廻り四寸四分
ホ.手穴直径三分五厘ヅツ
ヘ.管尻第一孔間六寸五分、第一孔第二孔間二寸二分五厘
第二孔第三孔間二寸一分、第三孔第四孔間二寸三分五厘
第四孔裏孔間一寸五分五厘、裏孔唄口間一尺
ト.藤巻七カ所
チ.焼印堅三分横二分細丸ニ隷書琴の字
リ.金文字上部表面「雲上律」下部裏面「元祖琴古作」
ヌ.地無し
ル.延べ竹
ヲ.色赫黒く飴色ニ光ル
ワ.管尻箔を塗ル
カ.唄口水牛一直線、中少々凹む
ヨ.アゴ思切リ落ス
タ.手穴内側思切リ削ル
レ.竹全體弓なりに曲る
大體コンナ状態でありますが右に就て少しく注釈を加へますと、
イ.長さ二尺四寸七分餘といふても竹が太くて肉が薄くて管内が広くて特に曲がり方大袈裟な為に筒音は勿論各音全體が少し低目のように感じられるのである。一尺八寸管と合奏して見ると筒音が八寸管のチに該当するようであるから先ず二尺五寸管と見做して差支なからうと思ひます。
ロ.唄口の内径一寸一分といふとアゴの小さい人はアゴが唄口の中にハイッテ仕舞う位です。試みに指を入れて見ると、人指と中指と薬指と此三本が一度に
ハイるのであります。ですから実際吹くのに慥に吹具合が悪いといふ事は事実でありませう。メリ吹きならドウにか音は少しは出ますが、カリ吹きですと息が皆外へ逃げてタヨリ無い事実に甚しい、之れを吹くには吹方はありますがソレハ後で述べます。此長さと太さから比較する竹を他に求めますと私の知って居る範囲では札幌農科大学の松村松年博士の二尺四寸管と今臺灣に居る谷狂竹氏の二尺五寸管と此二本であります。ドチラも先年私は吹かして頂きましたが今此流祖の竹と吹具合を比較して見ますとドウモ私の持って居る此流祖の竹の方が吹具合が悪いようであります。ツマリ夫れだけ骨が折れる訳で此点から見ましても此竹は到底尋常一様の竹でないと言へるのであります。音調や音味の事は又後で述べますが兎に角吹くのに骨が折れるといふ点では慥に前記兩氏の竹を凌駕して居り且つ長さに於て松村博士の竹を凌駕し太さに於て狂竹氏の竹を凌駕して居るのであります。今度又機会がありましたら是非共此三本の竹を比較対照の上研究さして貰ひたいと思ひます。
チ.焼印は浦本博士の竹と慥に違ひます。博士の方のは焼印の輪郭が角で、其角の四隅を更に角にしたツマリ變八角形でありますが此竹は細長い丸形であります。中の琴の字形が全然違って居ます。
リ.金文字は二ツ共所謂高蒔絵ではありません。竹の生地へ金粉で書いたものであります。書風は極く古風で無論現代人の文字ではありません。誰か相当有力な人物が流祖の竹として保管して居つて、ソレを後日の證據の為めと自分の名誉の為めに流祖の竹たる事を書残したものであらうと思ひます。ツマリ此金文字は此竹の所謂折紙といふ格でありまして、従って此竹は折紙付の竹といふ事になるのであります。其、誰か相当有力な人物といっても其誰であるかは容易に判らぬ事でありますが、金文字の書風から見て、ドウモ一調先生の手に非常によく似て居る点があるようであるから殊に依ったら一調先生では無いかとも思はれます。殊に管銘を雲上律と命名したあたりはドウ考へても一調先生らしく、一調先生でなければ風陽先生だらうと思ひますが、此兩先生を除いては他にコンナ名前を附けソウナ人は一寸見当たらないからであります。然乍ら其筆者の誰であるにもせよ、兎に角此竹は其製作年代(推定)から言っても、楽器としての実質的価値から見ても、又管銘を「雲上律」と命名した点から考へても、流祖自作の竹と見て決して恥ずかしくないと思ひます。殊に、「元祖琴古作」とあり其筆者が或は一調先生ではないかと思はれる以上は、他に確実な流祖の竹といふものが一本も現存しない今日、此竹を以て流祖の竹とする事は決して不当ではないと考へます。私は最初の色々と此竹を疑って見たのでありますが、ドウモ否定の材料よりも肯定の材料の方が多いので兎に角此竹を流祖自作の竹と決定する事に致しました。但無論只今私は全力を挙げて此竹の出所其他に就き調査中であります。調査の結果ドコまで正確な事が判るか、ソレハ今から予言は出来ません。途中で調査の糸が全く切れるかも判りません。又都合よく行って「元祖琴古作」に間違ないといふ確実な證據が出て来るかも判りません。何れにせよソレハ今後の私の努力如何と奇跡的幸運による事であります。
ヌ.地無シの竹といふ事はドウいふ事を意味するかといふと、ソレハ要するに製作当時のままといふ事であります。地無シですから後人が手を入れた形跡は全然ありません。即ち地漆は一ヘラも付いて居ないのであります。従って流祖自作の儘の姿で現在まで保管されたといふ事になるのであります。之れは実に有難い事でありましてココに此竹の絶対的な歴史的価値があるのであります。如何に古い管でも、又如何にヨク出来た管でも後人が手入れをした形跡のある管は古管としての価値は其手入れをした割合だけ割引されるのでありまして、従って全然手入れのしてないといふ管は其古管としての価値が百パーセントである事を示すのであります。此管は今申す通り全然後人が手入れをして居ません。従って流祖の芸術即ち製管法や吹奏技術や対尺八的態度やを研究する上に於ける絶好の参考品である計りでなく、琴古流尺八モツト大きく言へば日本尺八の変遷史上、発達史上最も有力なる参考品といふ事になるのであります。但只一ケ所極くホンの少し地の付いた所があります。ソレはゴロ節の少し下、根ツコの曲り角の所でありますが、此一片の地漆は何の為めに付けたか、調律の為めか或は其他の理由か未だ判断は付きませんが然し其理由如何に拘らず付いて居る地漆其物が非常に古いものであって所謂後人が加工したものではない事は漆の色を一見しただけでも判るのでありますからソレが為めに此地無シ竹の価値を毫厘も増減するものでは無いと考へます。
ル.延べ竹であるといふ事は果して流祖時代に中継の竹があったか無かったか恐らくは未だ中継は無かったであらうといふ。無い方の證據となるのでありますが、此事に就ては私は未だ充分の確信を以て申上げる程の材料も考へも持っては居りません。一體中継ぎの竹といふものはイツ頃出来たものか、風陽先生の銘管録には立派に中継ぎの竹は載って居りますが、中継ぎの創作は此銘管録をドノ位遡る事が出来るか、コレハ一寸面白い研究であります。
此尺八の中継ぎで思出すのは三絃のツギ棹であります。三絃ツギ棹を読込んだ
唄即ち上方唄「相の山」山本喜市調松田文耕堂作
久振しりにて相の山、(合)逢ひに来たさに三ツ継ぎの、棹に契りの鐵刀木云々
でありますが、此唄の出来た時代ー多分享保年間でありませうがー兎に角其時代に三味線の方には斯の如く立派に継ぎ棹殊に三ツ継ぎの技巧が完成して居った。ソレガ尺八の方に其継ぎ方の技術、乃至は継ぐといふ事が傳染しないといふ事は考えへられません。必ず傳染して居ったに違ひない。即ち三味線の真似をして尺八も亦中継をしたに違ひない。して見ると其創作年代はイツ頃か、風陽先生の銘管録は天保六年だから此年を遡る事果して幾年か、前申す通り此問題は只今の所是以上遡る事不可能でありますから此邊で打切りますが、兎に角之れは製管上の一大變革でありますから充分調査研究の上申上げたいと思ひます。
後日の為め以上の事を左に要約して置きます。
イ.三味線ツギ棹、享保年間、證據ー地唄「相の山」
ロ.尺八延べ竹、寶暦明和年間、證據ー流祖琴古作尺八「雲上律」
ハ.尺八延べ竹、琴古尺尺八、證據ー浦本氏其他所蔵
ニ.尺八中ツギ、天保六年、證據ー風陽銘管録
※尚此問題に就て御教示下された龍野一雄氏からの御書面は省略
管銘「雲上律」に就て
此竹に二つの見方かある。一つは歴史的見方、今一つは芸術的見方。
歴史的見方は、此竹は琴古流の流祖黒沢琴古先生の息の掛った竹である。而も流祖自作自吹の竹である。所謂流祖手澤の竹である。流祖の手の油の附いた竹を見たり聞いたり味つたりする事は取りも直さず直接流祖其人に面会し流祖の時代に遭遇したと同様であると感ずる事であります。流祖に面会したといふ事は流祖の人格や芸の如何なるものであったかを知った事と同様であり、流祖の時代に遭遇したといふ事は其時代の芸術即ち吹奏術や製管法や尺八精進などを知った事と同様であるのであります。要するに此竹の出現は今から二百年前の
琴古流即ち創始的に於ける琴子龍なるものが如何なるものであったかを決定する上に重大なる證據を提供するものであり、管銘「雲上律」は過去現在未来ー尠くとも過去から現在に至る琴古流の大精神として、流祖の理想や意思として、現代の尺八家が琴古流百年の大計を樹てる際の一ツの暗示として流祖が特に私共に下された意義深い言葉であると考えます。以上が歴史的見方であります。
芸術的な見方は、管其物を一個の芸術品と見、其演奏効果を一個の芸術と見る事でありまして、従って其製管法、其吹奏法が問題であり、就中管銘「雲上律の概念雰囲気といふものが問題の核心となるのであります。此竹の製管法に就ては後日製管専門家の御意見を拝聴の上申上ぐる事として、抑も雲上律とは何か、之れに就て少しく愚見を開陳する事と致します。字義に従へば雲上律は雲上楽即ち雲の上の音楽、天上の音楽といふ事でありまして、地上の俗楽即ち普通私共が日常音楽々々と称する所の所謂音楽の今一段高い音楽即ち天来の妙音妙楽を指すのであります。假令へて言へば普化禅師空中鈴鐸の音などであります。申す迄もなく此竹の発音は到底平素私共が耳にして居る所の音でなくて、恰も夢に聞く天上の音楽でもあるかのように頗る俗離れのした幽玄閑寂其物といったような感じがするのであります。今此天上の音楽なる観念を玆に書き表はす事は甚だ困難な事でありますが、兎に角唄口内径一寸一分、全長二尺五寸の弓のように曲った太く物々しい竹から発する音といふものは、到底平素私共が聞慣れて居る所の細竹のビンビン鼓膜へ響く音とは余程の距離があるようであります。ツマリ此雲上律といふ竹は最早普通の短い細い竹が其儘長く太くなったような音とは到底思はれません。ドウしても之れは全然別な竹、別な性質の竹、尺八といふべき餘りに尺八離れのした一種特別な尺八といふ事がハッキリと感じられるのであります。即ち音の質感と量感とが普通の竹とは全然違って居るといふ事を痛切に感じるのであります。即ち筒音のロにしても、丁度法螺貝を遠くで聞くようにな、或は知恩院の鐘を遠音で聞くような、或は又海鳴り山鳴り地鳴りといったような底に響く音、地底の音、遠い雲の中の音といったような感じであります。従って音全体がレとかロとかいふ明確な言葉や音譜で表はす事の出来ない頗る複雑な組織から成立つて居るように感じられるのであります。カンの音にしても假令へば磨いて磨いて磨き澄ました秋の夜の名月を見るような、或は折重つた思い雨雲の隙間から微かに明るい陽の光が匂ふて来るような、兎に角純の純、精の精なるものが感じられるのであります。然らば其発音の原因は何であるかといふに無論ソレハ管其物の異常さに因る事と、其吹方の特殊性に因る事と此二つであります。ソコデ問題は其吹方如何といふ事になるのでありますが、如何に銘管雲上律だからとて吹方が不適当ならば意地悪く全然発音をしないか或は発音をしても到底所期の雲上律らしい発音は決してしないのであります。ソコデ一體ドウ吹いたらよいといふ事がイヨイヨ問題の眼目となるのであります。如何にして此竹を吹くべきか。之れに就ては色々申上げたい事が山程あるのでありますが餘りに長くなるのと、吹方を口や筆で説明する事は非常に困難であるので省略する事に致しました。其代り久松風陽先生の「獨言」の第一項を提供して其責を塞ぎたいと思ひます。
「獨言」第一項
尺八を学ばんとするもの、まづ雑念を拂ひ、慾に離れ、勝劣の心を去り、気を臍下へ沈め、己が竹音に聞しむるを要とす。故に眼を閉ぢて吹くべし。初心は殊に眼を閉ぢざれば雑念発るべし。大體に於て之れに盡きると思ひますが、実際問題としては端座瞑目して精神統一から無念無想になる事が先決問題、無念無想は元来悟りに入るの第一歩であるといふ事ですが特に此吹き方として最も必要である事を痛感するのであります。私に幸ひにして恩師川瀬先生から先生の所謂無風帯なる吹方の傳授を受けて居りましたので此怪物「雲上律」を比較的容易に征服する事が出来ました。実に無上の幸福を感じて居る次第であります。故に私が此竹を手に入れたといふ事は、川瀬先生の所謂「無風帯のお陰で此竹が私がスグ吹き鳴らす事が出来たといふ所に第一の原因があるのであります。ソレカラ今一つは一調先生の「普化像讃」でありますが其昔清風軒吉田一調先生が躡雲普化像に讃して曰く
雲間振鐸去 冉々上虚空
更聞無聲響 永留竹管中
と謡はれましたが、恐らく之れが此銘管雲上律の眞面目ではあるまいかと思ひます。私が前に此竹の金文字の筆者は一調先生ではあるまいかと言った理由は一つは此讃に據る譯であります。此普化像讃を要約すると、普化即雲上楽即尺八といふ事であります。即ち雲間振鐸去は普化禅師の打振ふ鈴鐸の音が漸時雲中に没し去るといふ事。冉々上虚空は「ゼンゼン虚空に上る」と読みまして、グングンと雲の中に突進むといふ事。更聞無聲響は振鐸の音が虚空に上りつめると所謂無聲の響無聲の音楽で、モウ肉耳では聞へぬ、心に響く無聲の音楽といふ事。永留竹管中其無聲の音楽は肉耳にコソは聞へぬけれども永くイツまでも尺八のあらん限り、否尺八の生命のあらん限り尺八と共に存在するといふ事。今少し突込んでいふと尺八の眞生命は此無聲の響であるといふ事であります。之れ雲上楽に非ずして何ぞ、銘管「雲上律」の命名者は先づ十中八九まで一調先生に間違あるまいと思ひます。ソコで今一度同じような事を言はして貰ひますが、若しも此雲上律の命名者、筆者が一調先生だとすると、此竹は流祖琴古先生作に間違ないといふ事になるのであります。ナゼなれば、一調先生は私が今日本誌上で御紹介申上げて来た如く非常に人格の高潔なお方で芸術に熱心なお方で且つ物事に少しの無駄がなく、几帳面なお方で金力や権力で自分の人格や芸術を二三にするような卑劣なお方では絶対にないのであるから、此お方が慥に元祖琴古作といふからには先ず先ず他から余程有力な半證の現はれない限り流祖琴古作に間違無からうと思ひます。故に問題は一に懸つて命名者筆者が一調先生か否かに在るのであります。ソレは兎も角として、風陽先生の獨言といひ、一調先生の普化讃といひ、二つながら私は此竹の吹奏法としては絶好の方法だと考へます。此意気、此精神でなくては此竹は吹けない、否吹いても本当の雲上律らしい音は出ないと考へます。六ケ敷と言へば実に六ケ敷い話だが、ヤサしいと言へば実にヤサしい事である。一切を捨てて白紙に帰れ童心童窓、赤子の如き天真爛漫な気持ちで吹けといふ、只之れだけの事であります。
「雲上律の写真」(実物の写真はその1を参照)雑誌の写真は省略
私が此竹を手に入れたに就ては逢ふ人悉く喜んでくれました。皆異口同音に「目に見へない力が君に働き掛けたのだ」と言ってくれました。又「流祖が草葉の蔭から君に授けてくれたのだ」とも言ってくれました。本誌主幹藤田鈴朗氏は前号で「神霊のの賜だ」と書かれて居ります。川瀬先生は「君が琴古先生の事を色々と骨を折ったからだ」と言はれました。栗原廣太先生は「天授の恩賞に他ならず」と賞めてくれました。長崎の竹下澄人老豪は「我事の如く相感じ同慶至極、一度拝見拝聴の為め上京致度切望罷在候」と喜んで下さいました。京都の塚本虚堂雅兄からは「稀代の寶物である。是非機会を得て親しく拝見したいものである」と言って参りました。菩提所祥山寺の無隠和尚は早速筆硯を引寄せて「座断塵廛気似王 玄調妙典執詮量 無端奪得乾坤別 乃祖伸眉笑一場」賀得竹禅居士流祖作一管 祥山樵夫 と達筆を振って下さいました。以上の外先輩や竹友から続々とお賞めの言葉や喜びの手紙を頂戴して居りますが、一々載せる訳には参りませんので略しますが兎に角斯様な訳で、之れは私事では無い、琴古流全體の喜び事である。従って此竹は便宜上不肖私がお預りして居るけれども決して私の所有物では無い。琴古流全體の公有物である。であるから私は此竹を私の命に掛けて保管し守護する決心でありますが不取敢此竹を一刻も早く流人にお目に掛けたひい、喜びを頒ちたいと考へまして早速写真に撮りました。此所に掲出したものが即ちソレであります。(以上)
イ.全長二尺四寸七分五厘
ロ.唄口外径一寸四分五厘 唄口内径一寸一分
ハ.管尻外径一寸九分 管尻内径八分
ニ.首廻り四寸四分
ホ.手穴直径三分五厘ヅツ
ヘ.管尻第一孔間六寸五分、第一孔第二孔間二寸二分五厘
第二孔第三孔間二寸一分、第三孔第四孔間二寸三分五厘
第四孔裏孔間一寸五分五厘、裏孔唄口間一尺
ト.藤巻七カ所
チ.焼印堅三分横二分細丸ニ隷書琴の字
リ.金文字上部表面「雲上律」下部裏面「元祖琴古作」
ヌ.地無し
ル.延べ竹
ヲ.色赫黒く飴色ニ光ル
ワ.管尻箔を塗ル
カ.唄口水牛一直線、中少々凹む
ヨ.アゴ思切リ落ス
タ.手穴内側思切リ削ル
レ.竹全體弓なりに曲る
大體コンナ状態でありますが右に就て少しく注釈を加へますと、
イ.長さ二尺四寸七分餘といふても竹が太くて肉が薄くて管内が広くて特に曲がり方大袈裟な為に筒音は勿論各音全體が少し低目のように感じられるのである。一尺八寸管と合奏して見ると筒音が八寸管のチに該当するようであるから先ず二尺五寸管と見做して差支なからうと思ひます。
ロ.唄口の内径一寸一分といふとアゴの小さい人はアゴが唄口の中にハイッテ仕舞う位です。試みに指を入れて見ると、人指と中指と薬指と此三本が一度に
ハイるのであります。ですから実際吹くのに慥に吹具合が悪いといふ事は事実でありませう。メリ吹きならドウにか音は少しは出ますが、カリ吹きですと息が皆外へ逃げてタヨリ無い事実に甚しい、之れを吹くには吹方はありますがソレハ後で述べます。此長さと太さから比較する竹を他に求めますと私の知って居る範囲では札幌農科大学の松村松年博士の二尺四寸管と今臺灣に居る谷狂竹氏の二尺五寸管と此二本であります。ドチラも先年私は吹かして頂きましたが今此流祖の竹と吹具合を比較して見ますとドウモ私の持って居る此流祖の竹の方が吹具合が悪いようであります。ツマリ夫れだけ骨が折れる訳で此点から見ましても此竹は到底尋常一様の竹でないと言へるのであります。音調や音味の事は又後で述べますが兎に角吹くのに骨が折れるといふ点では慥に前記兩氏の竹を凌駕して居り且つ長さに於て松村博士の竹を凌駕し太さに於て狂竹氏の竹を凌駕して居るのであります。今度又機会がありましたら是非共此三本の竹を比較対照の上研究さして貰ひたいと思ひます。
チ.焼印は浦本博士の竹と慥に違ひます。博士の方のは焼印の輪郭が角で、其角の四隅を更に角にしたツマリ變八角形でありますが此竹は細長い丸形であります。中の琴の字形が全然違って居ます。
リ.金文字は二ツ共所謂高蒔絵ではありません。竹の生地へ金粉で書いたものであります。書風は極く古風で無論現代人の文字ではありません。誰か相当有力な人物が流祖の竹として保管して居つて、ソレを後日の證據の為めと自分の名誉の為めに流祖の竹たる事を書残したものであらうと思ひます。ツマリ此金文字は此竹の所謂折紙といふ格でありまして、従って此竹は折紙付の竹といふ事になるのであります。其、誰か相当有力な人物といっても其誰であるかは容易に判らぬ事でありますが、金文字の書風から見て、ドウモ一調先生の手に非常によく似て居る点があるようであるから殊に依ったら一調先生では無いかとも思はれます。殊に管銘を雲上律と命名したあたりはドウ考へても一調先生らしく、一調先生でなければ風陽先生だらうと思ひますが、此兩先生を除いては他にコンナ名前を附けソウナ人は一寸見当たらないからであります。然乍ら其筆者の誰であるにもせよ、兎に角此竹は其製作年代(推定)から言っても、楽器としての実質的価値から見ても、又管銘を「雲上律」と命名した点から考へても、流祖自作の竹と見て決して恥ずかしくないと思ひます。殊に、「元祖琴古作」とあり其筆者が或は一調先生ではないかと思はれる以上は、他に確実な流祖の竹といふものが一本も現存しない今日、此竹を以て流祖の竹とする事は決して不当ではないと考へます。私は最初の色々と此竹を疑って見たのでありますが、ドウモ否定の材料よりも肯定の材料の方が多いので兎に角此竹を流祖自作の竹と決定する事に致しました。但無論只今私は全力を挙げて此竹の出所其他に就き調査中であります。調査の結果ドコまで正確な事が判るか、ソレハ今から予言は出来ません。途中で調査の糸が全く切れるかも判りません。又都合よく行って「元祖琴古作」に間違ないといふ確実な證據が出て来るかも判りません。何れにせよソレハ今後の私の努力如何と奇跡的幸運による事であります。
ヌ.地無シの竹といふ事はドウいふ事を意味するかといふと、ソレハ要するに製作当時のままといふ事であります。地無シですから後人が手を入れた形跡は全然ありません。即ち地漆は一ヘラも付いて居ないのであります。従って流祖自作の儘の姿で現在まで保管されたといふ事になるのであります。之れは実に有難い事でありましてココに此竹の絶対的な歴史的価値があるのであります。如何に古い管でも、又如何にヨク出来た管でも後人が手入れをした形跡のある管は古管としての価値は其手入れをした割合だけ割引されるのでありまして、従って全然手入れのしてないといふ管は其古管としての価値が百パーセントである事を示すのであります。此管は今申す通り全然後人が手入れをして居ません。従って流祖の芸術即ち製管法や吹奏技術や対尺八的態度やを研究する上に於ける絶好の参考品である計りでなく、琴古流尺八モツト大きく言へば日本尺八の変遷史上、発達史上最も有力なる参考品といふ事になるのであります。但只一ケ所極くホンの少し地の付いた所があります。ソレはゴロ節の少し下、根ツコの曲り角の所でありますが、此一片の地漆は何の為めに付けたか、調律の為めか或は其他の理由か未だ判断は付きませんが然し其理由如何に拘らず付いて居る地漆其物が非常に古いものであって所謂後人が加工したものではない事は漆の色を一見しただけでも判るのでありますからソレが為めに此地無シ竹の価値を毫厘も増減するものでは無いと考へます。
ル.延べ竹であるといふ事は果して流祖時代に中継の竹があったか無かったか恐らくは未だ中継は無かったであらうといふ。無い方の證據となるのでありますが、此事に就ては私は未だ充分の確信を以て申上げる程の材料も考へも持っては居りません。一體中継ぎの竹といふものはイツ頃出来たものか、風陽先生の銘管録には立派に中継ぎの竹は載って居りますが、中継ぎの創作は此銘管録をドノ位遡る事が出来るか、コレハ一寸面白い研究であります。
此尺八の中継ぎで思出すのは三絃のツギ棹であります。三絃ツギ棹を読込んだ
唄即ち上方唄「相の山」山本喜市調松田文耕堂作
久振しりにて相の山、(合)逢ひに来たさに三ツ継ぎの、棹に契りの鐵刀木云々
でありますが、此唄の出来た時代ー多分享保年間でありませうがー兎に角其時代に三味線の方には斯の如く立派に継ぎ棹殊に三ツ継ぎの技巧が完成して居った。ソレガ尺八の方に其継ぎ方の技術、乃至は継ぐといふ事が傳染しないといふ事は考えへられません。必ず傳染して居ったに違ひない。即ち三味線の真似をして尺八も亦中継をしたに違ひない。して見ると其創作年代はイツ頃か、風陽先生の銘管録は天保六年だから此年を遡る事果して幾年か、前申す通り此問題は只今の所是以上遡る事不可能でありますから此邊で打切りますが、兎に角之れは製管上の一大變革でありますから充分調査研究の上申上げたいと思ひます。
後日の為め以上の事を左に要約して置きます。
イ.三味線ツギ棹、享保年間、證據ー地唄「相の山」
ロ.尺八延べ竹、寶暦明和年間、證據ー流祖琴古作尺八「雲上律」
ハ.尺八延べ竹、琴古尺尺八、證據ー浦本氏其他所蔵
ニ.尺八中ツギ、天保六年、證據ー風陽銘管録
※尚此問題に就て御教示下された龍野一雄氏からの御書面は省略
管銘「雲上律」に就て
此竹に二つの見方かある。一つは歴史的見方、今一つは芸術的見方。
歴史的見方は、此竹は琴古流の流祖黒沢琴古先生の息の掛った竹である。而も流祖自作自吹の竹である。所謂流祖手澤の竹である。流祖の手の油の附いた竹を見たり聞いたり味つたりする事は取りも直さず直接流祖其人に面会し流祖の時代に遭遇したと同様であると感ずる事であります。流祖に面会したといふ事は流祖の人格や芸の如何なるものであったかを知った事と同様であり、流祖の時代に遭遇したといふ事は其時代の芸術即ち吹奏術や製管法や尺八精進などを知った事と同様であるのであります。要するに此竹の出現は今から二百年前の
琴古流即ち創始的に於ける琴子龍なるものが如何なるものであったかを決定する上に重大なる證據を提供するものであり、管銘「雲上律」は過去現在未来ー尠くとも過去から現在に至る琴古流の大精神として、流祖の理想や意思として、現代の尺八家が琴古流百年の大計を樹てる際の一ツの暗示として流祖が特に私共に下された意義深い言葉であると考えます。以上が歴史的見方であります。
芸術的な見方は、管其物を一個の芸術品と見、其演奏効果を一個の芸術と見る事でありまして、従って其製管法、其吹奏法が問題であり、就中管銘「雲上律の概念雰囲気といふものが問題の核心となるのであります。此竹の製管法に就ては後日製管専門家の御意見を拝聴の上申上ぐる事として、抑も雲上律とは何か、之れに就て少しく愚見を開陳する事と致します。字義に従へば雲上律は雲上楽即ち雲の上の音楽、天上の音楽といふ事でありまして、地上の俗楽即ち普通私共が日常音楽々々と称する所の所謂音楽の今一段高い音楽即ち天来の妙音妙楽を指すのであります。假令へて言へば普化禅師空中鈴鐸の音などであります。申す迄もなく此竹の発音は到底平素私共が耳にして居る所の音でなくて、恰も夢に聞く天上の音楽でもあるかのように頗る俗離れのした幽玄閑寂其物といったような感じがするのであります。今此天上の音楽なる観念を玆に書き表はす事は甚だ困難な事でありますが、兎に角唄口内径一寸一分、全長二尺五寸の弓のように曲った太く物々しい竹から発する音といふものは、到底平素私共が聞慣れて居る所の細竹のビンビン鼓膜へ響く音とは余程の距離があるようであります。ツマリ此雲上律といふ竹は最早普通の短い細い竹が其儘長く太くなったような音とは到底思はれません。ドウしても之れは全然別な竹、別な性質の竹、尺八といふべき餘りに尺八離れのした一種特別な尺八といふ事がハッキリと感じられるのであります。即ち音の質感と量感とが普通の竹とは全然違って居るといふ事を痛切に感じるのであります。即ち筒音のロにしても、丁度法螺貝を遠くで聞くようにな、或は知恩院の鐘を遠音で聞くような、或は又海鳴り山鳴り地鳴りといったような底に響く音、地底の音、遠い雲の中の音といったような感じであります。従って音全体がレとかロとかいふ明確な言葉や音譜で表はす事の出来ない頗る複雑な組織から成立つて居るように感じられるのであります。カンの音にしても假令へば磨いて磨いて磨き澄ました秋の夜の名月を見るような、或は折重つた思い雨雲の隙間から微かに明るい陽の光が匂ふて来るような、兎に角純の純、精の精なるものが感じられるのであります。然らば其発音の原因は何であるかといふに無論ソレハ管其物の異常さに因る事と、其吹方の特殊性に因る事と此二つであります。ソコデ問題は其吹方如何といふ事になるのでありますが、如何に銘管雲上律だからとて吹方が不適当ならば意地悪く全然発音をしないか或は発音をしても到底所期の雲上律らしい発音は決してしないのであります。ソコデ一體ドウ吹いたらよいといふ事がイヨイヨ問題の眼目となるのであります。如何にして此竹を吹くべきか。之れに就ては色々申上げたい事が山程あるのでありますが餘りに長くなるのと、吹方を口や筆で説明する事は非常に困難であるので省略する事に致しました。其代り久松風陽先生の「獨言」の第一項を提供して其責を塞ぎたいと思ひます。
「獨言」第一項
尺八を学ばんとするもの、まづ雑念を拂ひ、慾に離れ、勝劣の心を去り、気を臍下へ沈め、己が竹音に聞しむるを要とす。故に眼を閉ぢて吹くべし。初心は殊に眼を閉ぢざれば雑念発るべし。大體に於て之れに盡きると思ひますが、実際問題としては端座瞑目して精神統一から無念無想になる事が先決問題、無念無想は元来悟りに入るの第一歩であるといふ事ですが特に此吹き方として最も必要である事を痛感するのであります。私に幸ひにして恩師川瀬先生から先生の所謂無風帯なる吹方の傳授を受けて居りましたので此怪物「雲上律」を比較的容易に征服する事が出来ました。実に無上の幸福を感じて居る次第であります。故に私が此竹を手に入れたといふ事は、川瀬先生の所謂「無風帯のお陰で此竹が私がスグ吹き鳴らす事が出来たといふ所に第一の原因があるのであります。ソレカラ今一つは一調先生の「普化像讃」でありますが其昔清風軒吉田一調先生が躡雲普化像に讃して曰く
雲間振鐸去 冉々上虚空
更聞無聲響 永留竹管中
と謡はれましたが、恐らく之れが此銘管雲上律の眞面目ではあるまいかと思ひます。私が前に此竹の金文字の筆者は一調先生ではあるまいかと言った理由は一つは此讃に據る譯であります。此普化像讃を要約すると、普化即雲上楽即尺八といふ事であります。即ち雲間振鐸去は普化禅師の打振ふ鈴鐸の音が漸時雲中に没し去るといふ事。冉々上虚空は「ゼンゼン虚空に上る」と読みまして、グングンと雲の中に突進むといふ事。更聞無聲響は振鐸の音が虚空に上りつめると所謂無聲の響無聲の音楽で、モウ肉耳では聞へぬ、心に響く無聲の音楽といふ事。永留竹管中其無聲の音楽は肉耳にコソは聞へぬけれども永くイツまでも尺八のあらん限り、否尺八の生命のあらん限り尺八と共に存在するといふ事。今少し突込んでいふと尺八の眞生命は此無聲の響であるといふ事であります。之れ雲上楽に非ずして何ぞ、銘管「雲上律」の命名者は先づ十中八九まで一調先生に間違あるまいと思ひます。ソコで今一度同じような事を言はして貰ひますが、若しも此雲上律の命名者、筆者が一調先生だとすると、此竹は流祖琴古先生作に間違ないといふ事になるのであります。ナゼなれば、一調先生は私が今日本誌上で御紹介申上げて来た如く非常に人格の高潔なお方で芸術に熱心なお方で且つ物事に少しの無駄がなく、几帳面なお方で金力や権力で自分の人格や芸術を二三にするような卑劣なお方では絶対にないのであるから、此お方が慥に元祖琴古作といふからには先ず先ず他から余程有力な半證の現はれない限り流祖琴古作に間違無からうと思ひます。故に問題は一に懸つて命名者筆者が一調先生か否かに在るのであります。ソレは兎も角として、風陽先生の獨言といひ、一調先生の普化讃といひ、二つながら私は此竹の吹奏法としては絶好の方法だと考へます。此意気、此精神でなくては此竹は吹けない、否吹いても本当の雲上律らしい音は出ないと考へます。六ケ敷と言へば実に六ケ敷い話だが、ヤサしいと言へば実にヤサしい事である。一切を捨てて白紙に帰れ童心童窓、赤子の如き天真爛漫な気持ちで吹けといふ、只之れだけの事であります。
「雲上律の写真」(実物の写真はその1を参照)雑誌の写真は省略
私が此竹を手に入れたに就ては逢ふ人悉く喜んでくれました。皆異口同音に「目に見へない力が君に働き掛けたのだ」と言ってくれました。又「流祖が草葉の蔭から君に授けてくれたのだ」とも言ってくれました。本誌主幹藤田鈴朗氏は前号で「神霊のの賜だ」と書かれて居ります。川瀬先生は「君が琴古先生の事を色々と骨を折ったからだ」と言はれました。栗原廣太先生は「天授の恩賞に他ならず」と賞めてくれました。長崎の竹下澄人老豪は「我事の如く相感じ同慶至極、一度拝見拝聴の為め上京致度切望罷在候」と喜んで下さいました。京都の塚本虚堂雅兄からは「稀代の寶物である。是非機会を得て親しく拝見したいものである」と言って参りました。菩提所祥山寺の無隠和尚は早速筆硯を引寄せて「座断塵廛気似王 玄調妙典執詮量 無端奪得乾坤別 乃祖伸眉笑一場」賀得竹禅居士流祖作一管 祥山樵夫 と達筆を振って下さいました。以上の外先輩や竹友から続々とお賞めの言葉や喜びの手紙を頂戴して居りますが、一々載せる訳には参りませんので略しますが兎に角斯様な訳で、之れは私事では無い、琴古流全體の喜び事である。従って此竹は便宜上不肖私がお預りして居るけれども決して私の所有物では無い。琴古流全體の公有物である。であるから私は此竹を私の命に掛けて保管し守護する決心でありますが不取敢此竹を一刻も早く流人にお目に掛けたひい、喜びを頒ちたいと考へまして早速写真に撮りました。此所に掲出したものが即ちソレであります。(以上)
雲上律の尺八に関する雑誌「三曲」に掲載された記事
(昭和10年5月号の記事より)
琴古忌雑報 竹禅生
琴古佐久尺八出現
四月廿三日の琴古忌を前にして又々意外な掘出物がありました事を皆さん共に喜びたいと思ひます。私の門人で雲上律の発見者たる川勝要一氏が、又々或所で立派な古管を一本手に入れました。焼印は雲上律の分と全く同じですから多分多分琴古作に相違なかろうといふ鑑定です。時代色も相当であり製管法も至って古い、寸法は長さ一尺六寸四分、首廻り三寸といふ極く細い竹、調子は雲上律に対して丁度雲井調子。ソコで錦風流の乳井月影氏と合議の上、琴古忌当日、雲上律と此六寸管と合奏献笛しようといふ事に決定、霧海ジの入れ手(流祖琴古作)を当日霊前で吹分けた訳です。
(昭和10年10月号の記事より)
雲上律ー竹禅ー狂竹
竹禅君は雲上律は心中しようといふ伸、それを狂竹君あっさり別れさせようと、それが互ひの身の為めぢゃとばかりに「どうぢゃいっそ身売りをさせたら、欲しがって大事に仕舞っておく篤志家もあるが」とやったものだ。竹禅老「イヤだ売らんよ」「一體幾らなら手離す」「イヤだよ」「御執心だねえ、見れば又見る煩悩で病気になるよ、大體あの圖抜けた大管は鳴らん、それを無理押しにして征服しようとしたのが病気だよ、因果だねえ、煩悩を立切って別れる事だよ」「別れんよ」「一體売るとなったら假りに幾らで」「そうさなア、世の中には瓦のかけらで何萬といふのもある、況して初代琴古の形見天下に一品といふ代物に萬以下といふ事はあるまい」狂竹」それは勿論さ」共鳴した狂竹君ふところをさがしてゐる。一萬圓でも放り出すのかと思ふと鼻紙で鼻を拭いて重ねて勿論さ、天下の變哲御兩人相当に共鳴してゐる處は珍。
(昭和10年2月号の記事より)
雲上律余聞
元祖琴古先生作の雲上律に就て一寸耳新しい事を聞きましたから左に抄録して置きます。吉田富子女史曰く、之れは私の母(一調先生の愛娘)から私が直接聞いた話ですが、一調在世の頃、数寄屋町時代で安政年間の事だと思ひます。一調先生の所へ殆んど毎日のやうに来て御飯を食べたり寝泊したりして全く家族同様な待遇を受けて居った虚無僧が居りました。其虚無僧はイツモ二尺五寸の真黒な怪物のやうな大管を吹いて非常に大きな音を出して人々を驚かして居ったとの事です。名は「ホーギョク」と申しまして私の母は其ホーギョクに大層可愛がられたといふ事です。只今此の雲上律を拝見しますと果して此竹がホーギョクの吹いた竹であるかないか私には判りませんが、此金文字は慥のオ爺さんの字に間違ないやうで御座います云々。彭城老先生曰く私は此の雲上律には覚へはありませんが、此金文字は慥一調先生に間違いありません。昔はよく竹に金文字を書くことが流行したもので、私も先生の御命令で度々其オ使をした事があります。例の橋市の弟子で、名は一寸忘れましたが麻布の飯倉に住んで居った人物で、よく斯ふいった風な蒔絵をしてくれた事を記憶して居ります。云々。竹禅曰く、富子女史の言はるるホーギョクといふ虚無僧は漢字で書けば「峰旭」だらうと思ひます。峰旭なら会って皆さんに差上げた事のある拙著「琴古流尺八相傳略系」中の久松風陽門人です。一調先生と相弟子で何れが兄は弟か判りませんが兎に角一調先生は非常に仲がよかった事は前の富子女史のお話から充分想像出来ると思ひます。ソコで私考へますに、此峰旭といふ人が元祖琴古先生作といふ銘管を持って居った。一調先生は、ソレハ其儘ではいけない、チャンと後日の證據になるやうに「元祖琴古作」と書いて置かなくてはいけない。且又是程の銘管に管銘がないといふのも残念な話である。宜しいワシが管銘を選定してやらうといふので「雲上律」と名付けた。一調先生自ら筆を執ってソレを其儘蒔絵にされたものであらうとコウ考へます。昨年十二月号でも申上げた如く、若し此私の想像に間違がないならば私は一調先生の御人格に信頼して此雲上律は慥に元祖琴古先生作に間違ないと決定して差支へないと存じます。尚彭城先生から此雲上律の筆者が一調先生に間違ないとイフ所謂折紙を頂戴した事を非常に光栄とするものであります。所謂折紙は色紙で左右に大きく雲上律と出した管の上半部其左に雲上の律を見る眼に涙して昔なつかし筆の跡かな 二代一調
と書いて下さいました。早速額に仕立てまして私の小書斎に掛け朝夕眺めて居ります。
琴古忌雑報 竹禅生
琴古佐久尺八出現
四月廿三日の琴古忌を前にして又々意外な掘出物がありました事を皆さん共に喜びたいと思ひます。私の門人で雲上律の発見者たる川勝要一氏が、又々或所で立派な古管を一本手に入れました。焼印は雲上律の分と全く同じですから多分多分琴古作に相違なかろうといふ鑑定です。時代色も相当であり製管法も至って古い、寸法は長さ一尺六寸四分、首廻り三寸といふ極く細い竹、調子は雲上律に対して丁度雲井調子。ソコで錦風流の乳井月影氏と合議の上、琴古忌当日、雲上律と此六寸管と合奏献笛しようといふ事に決定、霧海ジの入れ手(流祖琴古作)を当日霊前で吹分けた訳です。
(昭和10年10月号の記事より)
雲上律ー竹禅ー狂竹
竹禅君は雲上律は心中しようといふ伸、それを狂竹君あっさり別れさせようと、それが互ひの身の為めぢゃとばかりに「どうぢゃいっそ身売りをさせたら、欲しがって大事に仕舞っておく篤志家もあるが」とやったものだ。竹禅老「イヤだ売らんよ」「一體幾らなら手離す」「イヤだよ」「御執心だねえ、見れば又見る煩悩で病気になるよ、大體あの圖抜けた大管は鳴らん、それを無理押しにして征服しようとしたのが病気だよ、因果だねえ、煩悩を立切って別れる事だよ」「別れんよ」「一體売るとなったら假りに幾らで」「そうさなア、世の中には瓦のかけらで何萬といふのもある、況して初代琴古の形見天下に一品といふ代物に萬以下といふ事はあるまい」狂竹」それは勿論さ」共鳴した狂竹君ふところをさがしてゐる。一萬圓でも放り出すのかと思ふと鼻紙で鼻を拭いて重ねて勿論さ、天下の變哲御兩人相当に共鳴してゐる處は珍。
(昭和10年2月号の記事より)
雲上律余聞
元祖琴古先生作の雲上律に就て一寸耳新しい事を聞きましたから左に抄録して置きます。吉田富子女史曰く、之れは私の母(一調先生の愛娘)から私が直接聞いた話ですが、一調在世の頃、数寄屋町時代で安政年間の事だと思ひます。一調先生の所へ殆んど毎日のやうに来て御飯を食べたり寝泊したりして全く家族同様な待遇を受けて居った虚無僧が居りました。其虚無僧はイツモ二尺五寸の真黒な怪物のやうな大管を吹いて非常に大きな音を出して人々を驚かして居ったとの事です。名は「ホーギョク」と申しまして私の母は其ホーギョクに大層可愛がられたといふ事です。只今此の雲上律を拝見しますと果して此竹がホーギョクの吹いた竹であるかないか私には判りませんが、此金文字は慥のオ爺さんの字に間違ないやうで御座います云々。彭城老先生曰く私は此の雲上律には覚へはありませんが、此金文字は慥一調先生に間違いありません。昔はよく竹に金文字を書くことが流行したもので、私も先生の御命令で度々其オ使をした事があります。例の橋市の弟子で、名は一寸忘れましたが麻布の飯倉に住んで居った人物で、よく斯ふいった風な蒔絵をしてくれた事を記憶して居ります。云々。竹禅曰く、富子女史の言はるるホーギョクといふ虚無僧は漢字で書けば「峰旭」だらうと思ひます。峰旭なら会って皆さんに差上げた事のある拙著「琴古流尺八相傳略系」中の久松風陽門人です。一調先生と相弟子で何れが兄は弟か判りませんが兎に角一調先生は非常に仲がよかった事は前の富子女史のお話から充分想像出来ると思ひます。ソコで私考へますに、此峰旭といふ人が元祖琴古先生作といふ銘管を持って居った。一調先生は、ソレハ其儘ではいけない、チャンと後日の證據になるやうに「元祖琴古作」と書いて置かなくてはいけない。且又是程の銘管に管銘がないといふのも残念な話である。宜しいワシが管銘を選定してやらうといふので「雲上律」と名付けた。一調先生自ら筆を執ってソレを其儘蒔絵にされたものであらうとコウ考へます。昨年十二月号でも申上げた如く、若し此私の想像に間違がないならば私は一調先生の御人格に信頼して此雲上律は慥に元祖琴古先生作に間違ないと決定して差支へないと存じます。尚彭城先生から此雲上律の筆者が一調先生に間違ないとイフ所謂折紙を頂戴した事を非常に光栄とするものであります。所謂折紙は色紙で左右に大きく雲上律と出した管の上半部其左に雲上の律を見る眼に涙して昔なつかし筆の跡かな 二代一調
と書いて下さいました。早速額に仕立てまして私の小書斎に掛け朝夕眺めて居ります。
雲上律の尺八のその後(琴古流宗家竹友社:機関紙「竹友」第74号より)
中塚竹禅師遺稿及び遺品出現
~川勝家より宗家のもとに
上参郷祐康先生らにより調査始まる~
宗家は、先頃、尺八史研究に情熱をかけた初代川瀬順輔門人・中塚竹禅師(1887~1944)の遺稿遺品を、竹禅師の世話をしていた門弟の川勝要一氏(故人・開業歯科医師)の未亡人より、要一氏逝去後も同家の蔵に保管されていたが一家に尺八を嗜む者もなく、将来を心配し、引きとりを要望された。竹禅師は「琴古流尺八史観」と題し、雑誌「三曲」に連載するなどのその研究資料は貴重であり、また宗家にとっては幼ない頃”豊島園のおじさん”(晩年竹禅師は豊島園に近住していた)といって馴れ親しみ、一時は子のない竹禅師に養子に乞われたという縁もあり、さっそく未亡人の要請をうけ、都塵の危険を恐れて栃木県鹿沼市の別荘に保管、何とか公けの形で公開し、尺八史研究の一助になればと願っていたが、この度、吉川英史先生及び季刊「邦楽」のご協力によって上参郷祐康先生の手により第1回目の調査が行われた。その詳細な報告は上参郷氏筆で十二月既刊の季刊「邦楽」にも掲載されているので是非併読していただきたい。主なものについて記すと、三つの木箱には多大な遺稿と数点の書籍、吉田一調の看板二枚、竹禅師自身の免状二通の遺品(衣服・用具など身の廻りの品は皆無)が納められており、別に初代黒澤琴古作の刻印と「雲上律」の銘のある二尺五寸余りの大管尺八がある。(以下省略)
~川勝家より宗家のもとに
上参郷祐康先生らにより調査始まる~
宗家は、先頃、尺八史研究に情熱をかけた初代川瀬順輔門人・中塚竹禅師(1887~1944)の遺稿遺品を、竹禅師の世話をしていた門弟の川勝要一氏(故人・開業歯科医師)の未亡人より、要一氏逝去後も同家の蔵に保管されていたが一家に尺八を嗜む者もなく、将来を心配し、引きとりを要望された。竹禅師は「琴古流尺八史観」と題し、雑誌「三曲」に連載するなどのその研究資料は貴重であり、また宗家にとっては幼ない頃”豊島園のおじさん”(晩年竹禅師は豊島園に近住していた)といって馴れ親しみ、一時は子のない竹禅師に養子に乞われたという縁もあり、さっそく未亡人の要請をうけ、都塵の危険を恐れて栃木県鹿沼市の別荘に保管、何とか公けの形で公開し、尺八史研究の一助になればと願っていたが、この度、吉川英史先生及び季刊「邦楽」のご協力によって上参郷祐康先生の手により第1回目の調査が行われた。その詳細な報告は上参郷氏筆で十二月既刊の季刊「邦楽」にも掲載されているので是非併読していただきたい。主なものについて記すと、三つの木箱には多大な遺稿と数点の書籍、吉田一調の看板二枚、竹禅師自身の免状二通の遺品(衣服・用具など身の廻りの品は皆無)が納められており、別に初代黒澤琴古作の刻印と「雲上律」の銘のある二尺五寸余りの大管尺八がある。(以下省略)
元祖琴古先生作「雲上律」の尺八について
元祖琴古先生作として中塚竹禅師が愛用しました二尺四寸七分管を実際に手に取り吹くことが出来ました。外観は見事な飴色で、かなりの年代を経ていることが確認できました。また、表面の雲上律、裏面の元祖琴古作の文字は書体がすばらしいものでした。唄口のあご当りは、かなり削ってあります。琴古流式に口先を絞って吹くならば、仕方がないことでしょう。竹材は驚くほど肉薄であり、材質も柔らかいのがわかります。そのため内径が広くて締まりの無い音が響きます。手穴の位置も、おかしいので、童謡を吹いても音が外れていることが判りました。看板用に製作されたものかも知れません。ゴロ節から管尻が極端に曲がっているので、地無し管としては、息受けが非常に悪いことがわかります。筒音は、か細い音が響くだけで、楽器としてよりも看板として飾られたものではと思いました。
琴古作の尺八について(新潟市音楽芸能史より)(1977.11.3)
新潟市音楽芸能史の253ページ、尺八のところに仲村洋太郎(中庸会)の記事があるので、ここに掲載します。白山浦1丁目の産婦人科医、仲村洋太郎は琴古流水野派の尺八家である。終戦後の荒廃した世情に戦前の尺八家は、なかなか立ち直れなかった。氏は、その資力と尺八に対する新しい発想から、いち早く活動を開始した。その発想とは、「家庭内における父親の尺八は子供の吹くハーモニカや、妻や娘の弾くピアノやヴァイオリンにも合わせて、やれるものでなければならない。それが真の家庭音楽である。つまり洋楽も吹くことこそ、前後の尺八の行くべき道であり、それには1尺3寸管から2尺4寸管までを洋楽の音階に合うように製管しなければならない。」というもので、これの研究と宣伝に莫大な資産を投入した。得意のトロイメライを始めとする軽音楽から歌謡曲に到るまで膨大な数の五線譜を尺八楽譜に書き替え、これの宣伝に学校や施設を回って演奏したり、中央高校ハーモニカバンドをバックにレコードに吹き込んだり、果てはマスコミを動員して新聞に、ラジオに、テレビに出演して新しい尺八音楽の普及に努めた。当時のQKからの放送記録では昭和24年6月3日尺八とギター・アコーデオン合奏、25年3月1日尺八でトロイメライ、同年9月28日尺八、27年7月17日尺八とハーモニカ、28年2月12日尺八で船頭可愛いや、同年9月9日尺八とアコーデオンとあり、32年7月30日にはNHKから海外放送まで行っている。また昭和23年頃から中央の三曲、尺八の大家といわれる人を流派を問わず自宅に招いて県内の尺八同好者に案内を出し、自宅で講習会や鑑賞会を開いていたが、その集まりを流派にとらわれないところから中庸会と称していた。その一つに昭和23年8月14日から24日まで納富寿童、神如道、阿部久仁江、大海原奏風、池田逸漣師らを招いて自宅で尺八講習会を開催したことが当時の新聞に載っている。中央の大家に接する機会も少なかったときでもあるし、また同派で旧交のあるものはこれに応じ、多い時は20人、30人と集まってきた。氏の尺八家としての功績の一つに流祖黒澤琴古作の寸違い尺八(1尺3寸管)を見つけ出したことを挙げねばなるまい。この尺八は1尺8寸管の本尺八とともに越後明暗寺の寺宝であったものを、明暗寺最後の住職、堀田侍川の死後、1尺8寸管は長男の三郎が持ち出し、1尺3寸管は他の什器と一緒に売りに出されて行方知れずになっていたもので、最後に西蒲原郡島上村字熊の森の農家、春木佐五八という人が、当時、田圃二反を売り払って手に入れたものだという。その息子の佐五一が同郷の誼から新潟市上大川前の竹山病院院長竹山氏を通じて仲村氏に見せたところ、まぎれもなく琴古作の尺八であるということで、これを預かった氏は昭和26年の秋、県内の尺八同好者に案内し、市の護国神社において盛大に尺八の披露宴を催した。その後、昭和28年10月29日の新潟日報に、高田市役所で、この1尺3寸管と筝の名匠今村霞崖師の作った名筝で合奏し(筝演奏は平松登重子)、聴衆に感銘を与えた記事が載っている。また、同年2月17日の日報奇人列伝の欄に「メスを忘れ尺八談義、歌謡尺八は自称日本一」という見出しで、氏の面目躍如たる記事が数段に及んで記載されている。(記事は以上)
この黒澤琴古作の1尺3寸管は、地元新潟で活躍されました小山峯嘯氏が所蔵されていましたが、小山氏が亡くなられた後、遺族の方が、この尺八を琴古流尺八宗家竹友社に寄贈されました。
この黒澤琴古作の1尺3寸管は、地元新潟で活躍されました小山峯嘯氏が所蔵されていましたが、小山氏が亡くなられた後、遺族の方が、この尺八を琴古流尺八宗家竹友社に寄贈されました。
仙台市・光禅寺に残る古管尺八(2012.12.12)(その1)
仙台市・光禅寺に残る古管尺八(2012.12.12)(その2)
瀧谷孤瀧師が所蔵していた尺八(2009.9.9)(その1)
平成21年9月9日、弘前を訪問し、地元の錦風流尺八家・平尾雄三氏宅にて拝見した古管尺八について。地無し延管の太い尺八、二尺二寸管(裏面に昭和7年8月津島孤松伝・瀧谷孤瀧と文字が彫り込んであります)この尺八については、雑誌三曲、昭和9年に乳井建道師が本曲余談に投稿した記事があります。「その記事の内容は、神保政之助が持ったものだと想像される二尺二寸管を北海道で見たが、是も中々立派な銘管でさすがと思わせるものだ。古典を知らない人にこんな竹を死蔵させて置くのはつくづく惜しいと感じた。明治22~23年頃に、青森へ神保政之助が来た際、錦風流の津島孤松翁が旅館に訪ねて行った。その際、実に立派な二尺二寸管を吹けと云って出されたという話がある。之は前記の竹らしく想像されるのである。元来、この竹は神保の所有の竹ではなく、八戸の某所有の竹だったのである。」津島孤松師は、胃がんのため昭和7年10月4日に青森の自宅で亡くなりましたが、最後の弟子、瀧谷孤瀧に託した、二尺二寸管は、まさに神保政之助師から津島孤松師の手に渡り、さらに弟子の瀧谷孤瀧師が所蔵していましたが、瀧谷孤瀧師が亡くなった後、古道具屋にて死蔵していたものを、平尾雄三氏が購入されたとのことです。この、太い二尺二寸管、錦風流尺八家の津島孤松師にしては、慣れた太い地無し管であったと想像されます。この尺八を手にして、神保三谷の曲を吹けば、竹が曲を歌ってくれるように感じられる銘管でした。