岡本竹外先生の竹歴(新潟市音楽芸能史より)
HOME > 岡本竹外尺八随想集 > 岡本竹外先生の竹歴(新潟市音楽芸能史より)

岡本竹外先生の竹歴(新潟市音楽芸能史より)(1977.11.3)

岡本竹外(明暗蒼龍会会長)、本名忠毅、大正4年2月15日名古屋市で生まれたが、父が新発田16連隊長だったことから新発田中学を卒業し、横浜高等工業学校(現横浜国立大学)に進学した。在学中に横浜で琴古流荒木派の清水晶童に師事し、昭和12年6月に晶童の取り立てで師匠筋の小玉玄童の皆伝免許を受けている。同年8月新潟鐵工所に就職するとともに新潟に移住し、江雲会菅井一童に師事した。昭和15年12月に江雲会の師範を許されて浩雲と号したが、この頃、師一童より根笹派錦風流本曲を伝授され、その魅力にとらわれた。戦後昭和23年に神如道、桜井無笛の二大古典本曲専門家に師事し、以後専ら普化尺八の修行に専念した。同25年には法燈派本山興国寺の静光室華凌宗実師より普化禅の印可を受け、27年9月には越後明暗流斎川梅翁より三谷と鈴慕を伝授している。28年4月に東京本社勤務となって東京に移住したが、ここでも根笹派錦風流宗家成田松影に師事し、29年1月に錦風流師範を認許された。この頃より広く本曲同好者に呼びかけて東京竹韻会を結成し、更に明暗蒼龍会を主催して普化尺八の研究や古典の蒐集復元に努め、伝承した曲は百数十曲にものぼっている。その他自作の尺八曲や、普化洞簫禪伝承楽曲解説、普化禅宗と洞簫について、根笹派錦風流伝曲解説、根笹派錦風流についてなど、古典本曲に関する著述もあり、新潟鐵工所役員という重職にありながら吹禅行を通じて見性悟達することを期し、現在横浜市磯子区中原1の6の15の自宅で多くの門人を養成している。(昭和52年11月3日発行されました新潟市音楽芸能史より)
大久保甲堂作の愛管を吹かれる岡本竹外氏(クリックで画像を拡大)

普化吹禅儀(平成2年2月3日:明暗蒼龍会総会での岡本竹外先生の講義)

普化吹禅儀(岡本竹外先生筆)
序 
吹簫禪の渕源は我国高倉朝の承安元年(1171)叡山の僧、覺阿、渡宋し、杭州霊隠寺の仏海慧遠に参じ、一日長蘆江岸にて鼓聲を聞き忽然大悟、五偈を呈し、慧遠の印可を得たり、安元元年(1175)帰朝、高倉天皇に招かれて禪要を問われ、吹禅により奉答せしを、その嚆矢とするなり。次いで、建長元年(1249)無本覚心は東福寺開山、聖一国師(円爾弁円)の奨めによりて、渡宋、霊洞護国仁王寺、無門 慧開に参じ、その法を嗣ぎたり。その節、同参の居士にして普化禅師に随従せる張伯十六世の孫、張参より張氏嫡傳の洞簫禪の奥秘を傳承し、同好の四居士、法普(宝伏)、國佐、理正、宋恕を伴い建長六年(1254)帰朝せり。爾来、我國二十四流、禅の第四に位する法燈派の禅風を挙揚せしが、特に参禅の居士に見性證悟の妙法として吹簫座禅を勧奨せり。無本覚心は亀山天皇、後醍醐天皇より法燈圓明国師の諡号を賜はり、紀州由良鷲峰山興国寺の開山とし、その、門流より国泰寺開山、慈雲妙意、向嶽寺開山、抜隧得勝等、多くの巨匠を打出せり。法燈国師の法弟虚竹了圓、宇治に草庵を結びて普化禅師の振鐸行化に擬して畿内を吹禅托鉢せりといふ。虚竹了圓入寂(1298)の後、その法嗣天外明普、
京の白川に一寺を建て、法燈国師を祖師、虚竹禅師を開祖として虚霊山明暗寺と号し、法燈国師の開山たる興国寺を本山として普化禅宗を開創せり。関東に於いては法普居士(宝伏)の法嗣、金先古山、下総國小金に後深草朝、正嘉二年(1258)執権北条長時の寄進により、金龍山一月寺を創建せり。法普居士の法嗣、活惣了居士を開山とし、その法嗣、密雲哲秀は文永年間(1270年頃)武州幸手に廓嶺山鈴法寺を創建、後に慶長十八年(1613)武蔵青梅に移建されたり。爾来、この三ケ寺は普化禅宗の本寺として吹禅による普化の宗風を挙揚せり。明治四年(1871) 普化宗の廃宗により、この法燈は断絶せりと雖も、宗風は不断にして幾多の変遷を経たり。今や、この古調の精髄を復興し吹禅の真風を挙揚せんとす、然りと雖も徒らに伝統に依倚して無条件に肯はんとするには非ず、古人曰はずや、一句合頭の語、万劫の繋驢橛と。志を同じふするの道人に、次に標月の指。敲門の瓦を示さん。

鈴澤話 

普化禅師、常に街市に於いて、鈴を揺かして云く、明頭来や明頭打、暗頭来や暗頭打、四方八面来や旋風打、虚空来や連架打と。臨済侍者をして、去って纔に是の如く道うを見て、便ち把住して云わしむ。総に与麼に来たらざる時は如何。普化托開して云く、来日大悲院裏に斎あり。侍者回って臨済に挙似す。臨済云く、我従来這の漢を疑著す。

吹禅儀

1.夫れ吹禅の本旨は道源を證會し、身心湛寂にして動ぜず。萬法を摂して如々の地に穩座するにあり。劫前劫後、山河大地は一片の古曲にして、盤山、白雲を蓋と為し、流泉を琴と作して、無漏の曲を弾じ出せり。
2.吹禅の要訣は一管の竹に自己を打失するの修練なり、自己を無として竹管に投入し去り、その性に従ひもてゆき、竹我一如、円融自在に運用するを要す、この修練は、吹者をして自から自己を超越せる主体の対面するの機を得しむるなり。竹韻は手指に従い、心は法に従ひ、法は空に従ふ。驀直に吹断する時、手指は心を忘れ、心は法を忘れ、法は空を忘る、この時、萬法に證せられ、路縦横はらん。
3.微風竹叢を渡りて、竹に聲あり、竹外何の律呂かある。陽春山青く百花開き、夏日、花園に胡蝶舞ふ。秋には錦繍鮮かに、月影白く、厳冬寒雲凍って雪華翻る。
(岡本先生からいただきました原稿を、そのままに掲載します)
 

越後明暗寺について(岡本竹外著)(2016.2.18)

越後明暗寺について
越後明暗寺について、岡本竹外先生の錦風流尺八のレコードに解説を書かれていますが、その記事を紹介します。
越後明暗寺は普化宗根笹派に属し、開基は的翁文仲である。文仲は加賀出身の武将で菅原吉輝と云い慶長年間故あって 上洛し普化宗文遊庵主を師として吹禅の修行に努め、その奥儀を究め宗学相伝して修行に関東へ下向の節、掘丹後守直寄の知遇を得て、その推挙により元和元年徳川家康に謁した。家康は文仲が諸国の地理に精通し武勇の弟子を多勢養って居る事を知り、一朝有事の際の先鋒の役に任じ騎馬五騎総勢百廿五人の軍役を勤め軍役寺の創立を許した。元和二年正月文仲は肉食妻帯、有髪にて一子相伝の特令を免され、寺宝を制定し請け状を幕府に提出して秀峰山明暗寺を越後に創立して北陸道七ケ国即ち若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡を管轄する普化宗本寺となった。従って下総国小金の一月寺、武蔵国青梅の鈴法寺、京都洛東の明暗寺と同格の一本寺として創立されたのである。的翁文仲は元和の役、即ち大阪夏の陣の軍功により感状を授けられ、両刀を佩き一山の宗徒を率いて加勢の重任を負い、各地に転歴したが元和四年堀直寄が村上城主となるや的翁文仲に命じて城下に明暗寺を建て、掘の一寺を与えて堀田姓を名乗のらせた。従って村上藩士堀田吉輝として勤めると共に、的翁文仲として越後明暗寺の開基となり吹禅の三昧境に妙用大悟して遷化した。第二代堀田隼之助吉時(大応源秀)の時、村上陣屋近郷の中名沢(ちゅうなざわ)に三度目の明暗寺を建てた。 第八代堀田吉信(了義)の元禄年間失火によって伽藍全焼、了義は責を負うて自決した。了義の叔父に当る堀記内吉友(大円快仙)が藩主の命によって蒲原郡下田村(しただむら)中野原に明暗寺を再建した。安永年間気寄竹派に転じ、十二代堀田隼之進吉房(大鏡源志)の文化年間普化宗不智派の本寺となった。第十三代堀田隼多吉成(環山源恵)の時、一月寺鈴法寺の両本寺と管轄権に就いての訴訟事件が起こり、寺社奉行松平伊賀守の下で数年間争いが続いたが、一月寺鈴法寺は敗訴の一歩手前で和議を申し入れ、天保十四年正月訴訟を取り下げて解決した。この時の記録を環山源恵が書き遺しているが普化宗史研究の上から貴重なものである。第十五代堀田龍志(侍川)の時、即ち明治四年普化宗は廃止となった。越後明暗寺は徳川幕府と同じく十五代役三百年続いた普化宗の名刹であった。堀田侍川門下の斎川梅翁師によって越後明暗寺伝の鈴慕及び三谷の二曲が現在まで伝承されている。斎川梅翁師は昭和四十二年齢百歳にて逝去役八十五年間吹竹三昧の生涯であった。(岡本竹外記)