秩父宮殿下と御前演奏
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秩父宮殿下と御前演奏(その1)

昭和天皇の弟、秩父宮

 昭和十(一九三五)年八月十日午前八時五十二分。秩父宮夫妻は弘前駅に到着した。歓迎の人々は夜明け前から駅に待機し、その中に警衛に選ばれた寺山修司の父八郎もいた。昭和天皇の1歳下の弟、秩父宮はこの時三十三歳。英国留学経験もあり、「スポーツの宮様」として慕われ、青森県にはスキーで以前から縁があった。宮様は定期異動で参謀本部付から弘前第八師団の歩兵第三十一連隊大隊長に任命された。青森、岩手、秋田、山形から入隊する初兵の教育が主な任務だった。三十一連隊には宮澤賢治の弟清六も入隊し、賢治が山田の練兵場まで会いに来たという逸話も残っている。この頃の東北は昭和恐慌と大飢饉のために疲弊しきっていた。身売り娘や欠食児童。都会の人々は募金活動や人道支援をし、一方、陸軍では、「昭和維新」を唱える革新派の動きが活発になり、世の中は不穏な空気に包まれていた。秩父宮は東北の惨状に胸を痛め自ら志願して来たのだといわれている。天皇の子である親王が地方に住むなどは前例のないことだ。夫妻は弘前に到着するとすぐに紺屋町に向かえた。そこに菊池薬局を営んでいた菊池長之の別邸があり、「御仮邸」と呼ばれ、秩父宮夫妻の住居になった。当時の様子を勢津子妃が書き残している。すぐ裏は田圃がつづきで、農作業をする人々の様子がよく見え、窓の向こうに穂を出す前の青い稲が風に波打っております。『今年は豊作だとよろしゅうございますね』と、移ってきたばかりなのにさっそく土地の人の気分になって宮さまと話したりいたしました。宮さまは田植えから稲刈り、脱穀までの一部始終を1年がかりで十六ミリカメラで撮影して、皇太后さまにご覧に入れる計画をお立てになりました。近くを岩木川が流れていて、せせらぎの音が聞こえ有名な弘前城や弘前公園も近く二階からは岩木山、八甲田山などが見え、私も宮さまのお供をしてあちこち散歩にはよくまいりました。『郷土兵団物語』(岩手日報社)には「やがて冬。自動車をやめて、スキーで連隊へ出勤された。警備の警察官はおおあわて。宮さまはスキーですうすう。沿道で敬礼する市民には「おはよう」と気軽にあいさつされた。市内は雪切りのときは徒歩で通勤された。宮さまと知らずに欠礼する市民も多かった。天気のいい朝は、愛馬「五勲号」を飛ばされた。お邸のすじ向かいの民家の一部に、目立たないように小さな派出所が設けられていた。「もう時間だな」と警察官が門前をそれとなく見張っている。するといきなり、宮さまは乗馬を飛ばして行ってしまう。沿道の派出所への電話連絡も間に合わない。宮様大隊長は、それがおもしろそうに、一層飛ばして行かれた」とある。これが本当なら庶民的で活発、チャーミングな宮様相手に警衛警官も大変である。紺屋町には現在も旧派出所が《趣のある建物》として残されているが、この記述に出てくるのは御仮邸の警備用に置かれた臨時派出所のこと。本間徳太警部補と斎藤幸作巡査部長のもと十四人の巡査が交代で勤務した。その中に二十三歳の八郎は選ばれた。彼は青森県でも選りすぐりの若手エリート警察官だったのだ。

 

生誕八十年

寺山修司と弘前

      世良 啓 筆

陸奥新報・2015年

(平成27年12月18日)

 より転記する。

 

 

 

左から斎藤周童、山谷仰山(クリックで画像を拡大)
山谷仰山氏の尺八(クリックで画像を拡大)
折登如月作(クリックで画像を拡大)

秩父宮殿下と御前演奏(その2)

斎藤周童師は東大医学部時代に琴古流の三浦琴童師に師事。後に弘前に帰り外科医を開業、錦風流は津島孤松師の系統。山谷孤山氏は平川市の猿賀神社宮司であり、また警察官、村長も務められた方で、錦風流の津島孤松師に明治41年、18歳の時に入門され、大正12年の秋に皆伝を受けている。秩父宮殿下の滞在された菊池別邸は後に火災により焼失しました。秩父宮殿下の入浴された風呂桶は、錦風流尺八や笛の名手であった松山定之助氏が製作しました。松山定之助氏の錦風流尺八は、今年青森県から県技芸保持者の認定を受けました高橋涛月氏が受け継ぎ、笛の方は、同じく県技芸保持者の藤田竹心氏が受け継いでいます。高橋涛月氏の思い出話によれば、松山定之助氏は菊池別邸が火災になった時は、風呂桶を一番に持ち出すように言われたとのことです。
斎藤周童師の吹き料(クリックで画像を拡大)
斎藤周童師の吹き料(クリックで画像を拡大)
陸奥新報の記事(クリックで画像を拡大)