安養寺と法燈国師像
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安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その1)
長野県佐久市安原1687 臨済宗(妙心寺派)安養寺にあります法灯円明国師座像を拝見し、献奏をしてきました。この安養寺の住職、役員の方々は毎年10月、和歌山県由良にあります興国寺の訪問が恒例になっているとのことでした。今年の10月は檀家の皆さんとマイクロバスで遠路、由良興国寺まで出かけたとのこと。今回、突然の訪問、檀家の法要の最中でしたが、御厚意で本堂奥の法燈国師像の前で、3尺管で阿字観を献奏させていただきました。献奏のあと、客間で娘とお茶をいただきました。帰りに安養寺味噌を購入して帰りました。
安養寺と法燈国師像(2016.11.12)(その2)
安養寺の木造伝法燈国師座像について(佐久市のホームページより転載)
平成22年10月18日 長野県宝指定
所在地長野県佐久市安原
所有者 安養寺
木像は桧材寄せ木造りで、両肩先および衣掛けは左右4枚のつぎ付けからなっており、内部はくりぬかれている。白絹の下地に漆塗りで彩色および模様を施す。等身像で水晶をはめ込んだ両目は伏し眼がちに俯瞰(高い所から見おろす)し、鼻すじのとおった細面、固く結んだ口もとには端厳(ただしくおごそか)な国師の意志をうかがわせている。衣服には青っぽい色彩が施されており、そのところどころに繊細な模様がかかれている。きっちりとした襟もとや袈裟のかけ具合などからは清潔感がただよう。製作年代を示す銘記はないが、両膝間は左袖口に見られるように、衣の彫りには部分的に強い稜の立った工法が用いられており、地方仏師による鎌倉様式を伝える室町中期の作と推定される。法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林郷に生まれる。無本覚心、法燈国師は後伏見天皇からの謚(オクリナ)(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追謚された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。法量は、胴高85.0cm、頂~顎25.2cm、髪際~顎18.2cm、面幅15.0cm、面奥19.7cm、肩張り37.3cm、肘張り60.1cm、胸厚28.7cm、膝張り58.5cm、座奥60.5cm、衣掛け60.0cmである。
平成22年10月18日 長野県宝指定
所在地長野県佐久市安原
所有者 安養寺
木像は桧材寄せ木造りで、両肩先および衣掛けは左右4枚のつぎ付けからなっており、内部はくりぬかれている。白絹の下地に漆塗りで彩色および模様を施す。等身像で水晶をはめ込んだ両目は伏し眼がちに俯瞰(高い所から見おろす)し、鼻すじのとおった細面、固く結んだ口もとには端厳(ただしくおごそか)な国師の意志をうかがわせている。衣服には青っぽい色彩が施されており、そのところどころに繊細な模様がかかれている。きっちりとした襟もとや袈裟のかけ具合などからは清潔感がただよう。製作年代を示す銘記はないが、両膝間は左袖口に見られるように、衣の彫りには部分的に強い稜の立った工法が用いられており、地方仏師による鎌倉様式を伝える室町中期の作と推定される。法燈国師は鎌倉中期の臨済宗の高僧、承元元年(1207)から永仁6年(1298)ころ、筑摩郡神林郷に生まれる。無本覚心、法燈国師は後伏見天皇からの謚(オクリナ)(死者に贈る名)で、後醍醐天皇からは円明国師と追謚された。後深草上皇の発願により安養寺の開山となったと伝えられている。法量は、胴高85.0cm、頂~顎25.2cm、髪際~顎18.2cm、面幅15.0cm、面奥19.7cm、肩張り37.3cm、肘張り60.1cm、胸厚28.7cm、膝張り58.5cm、座奥60.5cm、衣掛け60.0cmである。