伊東克郎(笛斉)氏の思いで
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伊東笛斉氏の思い出(2016.4.21)平成5年度夏季蒼龍会研修旅行

平成5年8月、蒼龍会夏季研修旅行について、伊東笛斉氏が虚無僧研究会会報に投稿された記事を掲載します。
虚無研会報第24号:平成六年四月発行より
八月二十一日
今年の蒼龍会夏季研修旅行は九州博多一朝軒であった。今回もお誘いを頂いたので参加させて頂いた。ついでに大宰府も参詣したり、梵鐘で有名な観世音寺で献笛したり、幹事の乾氏はいろいろと企画されたらしい。同時に古典尺八で西海の名門一朝軒訪問は蒼龍会会員一同の願いであったと聞く。福岡市博多区御供所町六の十六、西光寺は、その昔の一朝軒の伝統を継ぐ寺である。明治四年十月明治政府は太政官布告をもって、普化宗を禁止したので、一朝軒の法灯は、それ以来廃絶した事になっているが、内部では法脈は第十八世法機伯堂、第十九世磯施行、第二十世磯一光、第二十一世磯譲山とつづき、今日に及んでいる。一朝軒が祇園町矢倉門に普化宗の庵室を開いたのは正徳三年(1713)以降であるといわれるから、それ以来二百八十年、脈々として普化尺八は続いている。今年は蒼龍会一行は、その一朝軒をめざす。今年の九州は雨、風でさんざんであった。梅雨明けの宣言があったのは例年よりやや遅い七月中旬すぎであったが、その後八月二十一日、二十二日の旅行当日にいたるまで九州の天候は極めて不安定であった。鹿児島地方は先日の台風で大荒れ、そのすぐ後、佐賀地方も豪雨で洪水騒ぎ、二年越しの災難が続いている島原地方の普賢岳も、その都度大雨に見舞われ、いまだに土石流は下流の家や畑を流している。今年は地球規模の異変の年、七月には北海道奥尻島では大地震、それに加えて、大津波があり、奥尻島は全滅に近い。研修旅行から帰ったとたん台風は関東へ、日比谷から丸の内にかけて、お濠が溢れて皇居前の広い道路は川となり、神田川は氾濫して浸水家屋続出であった。アメリカのミシシッピー河は大氾濫、穀倉地帯は一面水没だという。中国では揚子江が大洪水で、インドでは大地震があって二万人が死ぬという想像もつかない大被害が起きている。地球がどうかならないかと心配になってくる。聖福寺まで住職のお出迎えを頂いて、西光寺さんに着いたのは、お昼前であった。最近極めて便利になって、飛行機を降りると、そのまま地下鉄に。空港から西光寺のある祇園町まで十数分で着く。現地集合組も含めて、総勢二十余人、おそばをご馳走になる。いよいよ本堂に整列、磯譲山和尚の般若心経読経の後、「調子」「回向」の連管、二十数本の二尺三寸管の竹韻は閑寂な寺町にこだまする。ここ西光寺は広大な敷地をもつ聖福寺の山域の一部にあるが、博多の繁華な街並みの真ん中に、よくまあ、このような静かな、しかも広大な山域あるものよと思う。「明暗寺末普門山一朝軒歴世録」によれば、五世一空祖因は「矢倉門(祇園町)に庵室を開き一朝軒と号して聖福寺に属せり」とある。蒼龍会連管のあと、磯譲山師、一光師、門下竹人も加わり、大和調子、九州鈴慕、一朝軒虚空、など夕刻まで竹韻は続く。一光師竹韻は往時津野田露月師を継いで博多の町を行脚した思いを込めての竹韻であろうか。夜は博多の有名な料亭「稚加栄」にて磯夫妻並びに一朝軒の方々ともども宴席に、古典尺八の話が弾む。前島竹堂氏持参の磯一光師若き日の写真・・・・・・・真ん中に津野田露月師をはさんで向かって右に谷北無竹師、左に若き日の一光女史・・・・・・も話題となり、なごやかに時が経つ。
八月二十二日
今日はバスにて大宰府、光明寺、観世音寺に。宿舎を九時にスタート。バスに乗り込むにも苦労するほどの、またしても大雨、大宰府まで四十分、ずーと雨、時には激しく窓を叩く。九州自動車道路をなんか、途中で右に回り大宰府へ。左手に、その昔、外敵に備えた防塁のあとを見ながら大宰府着。やや小降りの参道を三々五々。ある人は家内安全を願い、ある人は密かに我が子の合格を願い、それぞれに菅公社殿に真摯にぬかずく。(筆者独白・・・・あんなに沢山お札やお守りを仕入れて・・・・霊験あらたかなのかなあ・・・・という筆者も、お札を一つ。)参詣後、近くの光明寺にて一服。「献笛を」と願い出るも「歌舞音曲を許さず」として一蹴さる。わが普化宗尺八が歌舞音曲なりとは残念。奥に入って石庭を見学、特にこれと言って特徴のある石庭ではないが、裏山を崩して庭として石を配置している。横手の茶室も雨漏りがして、風雅の影はない。壁に一句あり。「時雨るるや石庭広く京に似て」昼食をすまして再びバスにて観世音寺へ。天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈るために建立発願されたものであるが、堂塔が完成したのは、それより七十年あと天平十八年(746)であるという。そのあと天平宝字五年(761)には西海道諸国の僧尼の受戒の道場として戒壇院が観世音寺に設けられた。中国から招かれた鑑真が大和の東大寺に設けた戒壇院が最初(755)であるが、それから六年後、下野薬師寺と並んで、ここ観世音寺に設けられたという。日本三戒壇の一つである。それぞれに西海道の総轄管庁たる大宰府の正庁とならびたつ勅願の大寺であった。参詣する前に有名な巨像を拝観する。今を去る千年前、五メートル前後の仏像の並び立つ金堂、講堂、菩薩院の内部は壮観であったに違いない。度重なる災害のため創建当初の堂宇も仏像も失ってしまったが、いまでは平安から鎌倉へかけての仏像十八軀、石像狛犬一対、雅楽面三面が新しい収蔵庫のなかに整然と配置されている。全部書き並べる余裕はないが、なかでも大きな像の一つ、馬頭観世音像は像高五メートル余、四面八臂、忿怒の形相は畜生道を救うという悲願のあらわれであろう。藤原末期の作である。不空絹索観音は像高五メートル十七センチ、八臂、十一面、鎌倉時代の像である。そのほか聖観音像、十一面観音像、阿弥陀如来像、四天王像、地蔵菩薩像、殆ど全てが重要文化財である。仏像拝観を終えて、一同本堂に参列。創建以降の観世音寺は、時代の流とともに浮き沈みを繰り返したが、江戸時代に入って藩主黒田公の後ろだてを経て博多の豪商の篤志によって現本堂が建てかえられたという。当時の堂宇の面影は全くないというが、それにしても古色蒼然として天平の昔を偲ぶに十分の威厳を感ずる。一同整列して献笛、虚空、九州鈴慕、途中に雷鳴を伴って再び激しい雨、献笛終了、小降りになるのを待って、今度は有名な梵鐘のある鐘楼へ。延喜元年(901)藤原一門の誹謗によって、罪に問われた右大臣菅原道真は大宰府に配流された。二年後病を得て、この地で死去するまで、ひたすらに配所で謹慎したという。道真の不遇の晩年を慰めたのが、この鐘楼である。「一従凋落就柴刑  萬死兢々跼蹐情 都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声」菅公の有名な一句である。そのほか鐘にまつわる詩文は多い。「烏鳴いて・・・・で有名な「楓橋夜泊」もしかり。明治の文豪高山樗牛の「清見寺の鐘声」もまた有名である。明治の美文調で「・・・・ひびきはいよいよ冴えわたり、山をかすめ、海をわたり、一たびは低く、絶えなんとして、またつづき、沈まんとしてまた浮かぶ、天地の律呂か自然の呼吸か、隠としていためるところあるがごとし。あやしきかなわが胸は、鐘のひびきとともにあえぐ如く波うちぬ・・・・」この梵鐘は国宝であるが、日本最古といわれる京都妙心寺の鐘と同じ時期に同鋳型をもって作られたものであるという。高さは龍頭の高さを含めて一九四・四糎、口径八六・四糎、これからみても総体的に細見、すんなりとして気品がある。龍頭の意匠は古式によるとあるが、下からはよく見えない。文献によると梵鐘の龍頭は、「りゅうず」とよばれるけれども成長した龍にあらず、龍の子である蒲牢であるという。蒲牢とは龍の九子の一つで海辺に住みつく、鯨を恐れ、襲われて大声で泣き叫ぶ。その鳴き声が鐘の音であり、唸りであるという。越後鈴慕の最初の調子は、まさに龍の立ちあがらんとするところであろうか。住職から、この古鐘の由来、音の説明を聞く。「すみません、もう一度突いて下さい」誰かがお願いする。十秒に四回あるという唸りをともなってゴウーン、ゴウーンと荘重に響く。よく引用される徒然草第二百二十段には「およそ鐘の声は黄鐘調なるべし。これ無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり・・・・」とある。祇園精舎の鐘の音は心豊かな人には諸行無常ときこえるのである。尺八黄鐘調もまた無常の響きを持つ。古鐘の音を耳に残して帰りのバスに乗り込む、いつのまにか青空が広がっている。福岡空港に着く頃は、すっかり晴れ上がる。それぞれが二日間のさまざまな思い出を、遠い歴史の足跡と重ねながら、蒼龍会の旅は終わった。




 

伊東克郎(笛斉)氏の思いで(2016.3.17)(その1)

古典尺八・桜井無笛師の門下、故・伊東笛斉氏の事を紹介します。伊東笛斉氏は明暗蒼龍会には、客員として参加され、蒼龍会の夏季研修旅行にも参加されました。また、幻の法燈教会について、明暗蒼龍会大阪支部の前島竹堂氏から頂きました資料によれば、昭和21年に華陵老師が由良・興国寺に入山されてから、普化尺八復興に情熱を注がれてきました。開山法燈国師650年遠忌に谷北無竹師、桜井無笛師、津野田露月師、木幡吹月師、浦本浙潮師など全国の尺八大家が興国寺を訪れるようになって機が熟し、昭和24年2月に法燈教会が結成されました。法燈教会発起人名簿には、和歌山市・伊東克郎、前島義樹、楠見敏雄、和歌山県・坂口健一郎、三重県・安藤祖雄、大阪市・今仲章月、坂野勤、中西卯太郎、北中清、塚本凱男、山口渓月、井上寳山、神戸市・丸山霽茂、京都・小泉止山、東京都・浦本浙潮、小倉市・小曾根蔵太、久留米市・木下吟鈴、谷狂竹、島根県・木幡吹月、新潟県・榎並健太郎、山形県・佐藤忠三、神奈川県・高橋空山、大阪市・桜井潔、(顧問)京都・谷北無竹先生 京都府愛宕郡八瀬村 、熊本・津野田露月先生 熊本市   以上
また、法燈教会清規、趣意書などは、興国寺、古川華陵老師、桜井無笛先生から委嘱されて伊東笛斉氏がほとんど一人で作り上げられました。参考までに、法燈教会趣意書を掲載します。
法燈教会趣意書
思ふに戦後の邦家はとみに人心弘廃し且つ思想混沌として、その前途は寒心すべき世相を写して居ります。殊に青少年層の如きは外来文化の選擇を誤り、軽挑浮薄に流れ、日本固有の姿を没却せんとする傾向が窺はれ、遺憾に堪えません。此の秋に當り我等同人は古来七百年の傳統を誇る宗教音楽普化尺八の法韻と楽禅一致の精神を通し、自己の人格修養並びに音聲説法の利効に因る思想の善導浄化を目的として社会大衆に呼びかけ、国家の再建に意義あらせ、併せて斯道の普及と永遠の保存に力を致すべく大念願を起し、茲に普化宗開山紀州由良町鷲峯山興国寺を本部として法燈教会を結成した次第であります。昨二十三年秋十月、京阪神の古典尺八同人を中心に遠大なる計画を以て発足致しまして以来著しき反響を呼び、全国竹道家の協賛と積極的援助を得て、既に九州、西国、山陰、中国、北陸等支部の設置拾指を数えるに到り、着々普及発展の活路も拓けつつありまして、愈々責任の重大さを痛感し、一層慎重事に當り所期の目的達成に邁進する覚悟であります。(以上) 
 

伊東克郎(笛斉)氏の思いで(2016.3.17)(その2)

伊東笛斉氏は花王㈱副社長、花王販売㈱社長を歴任された方ですが、花王㈱の社内報「ファミリー」に寄稿された記事を、虚無僧研究会の会報第九号)昭和六十一年十月発行)に小管会長の要望で、投稿されました。その記事「夏をすごす」をここに紹介します。
 随想・夏をすごす
和歌山を離れてからもう三十年もたちますが、いまだに鬱蒼とした森の中のお寺が目に浮かびます。その頃は夢中になって大阪の桜井無笛師のもとに通いましたし、京都の谷北無竹師の枯淡な竹韻にも接しました。東京へ来てからも大勢の竹師、竹友を遍歴したしました。そのうちの多くのかたがたが既に幽明を異にされました。私も生あるかぎり一層竹道に励みたいと思います。和歌山市駅から南へ、汽車で一時間もすると由良という町があって、そこに興国寺というお寺がある。正式には鷲峯山興国寺という。和歌山工場のかやがたは、よくご存知だろうが、今から七百年の昔、法燈円明国師を迎えて開山された由緒あるお寺である。鎌倉幕府、武家政治が始まった当初は、平安時代の爛熟した文化、腐敗した制度に一大改革が加えられた時代であって、仏教もまた、諸宗派に分裂の時代であった。天台宗、真言宗という二つの大きな流れは、次第に影をうすめ、浄土宗、真宗、日蓮宗等の所謂新興宗教が勃興した。法燈国師は、この時代に入宋して遍歴六年、帰国して臨済宗をとなえ、わが国の禅宗の一祖となった高僧である。径山寺味噌の製法をつたえ、湯浅醤油を培い尺八の秘曲を伝来して、これを法悦に加えたという。私はよく、土曜日の夕方から、暑い和歌山市内を逃げ出して、このお寺へでかけた。由良の駅から十五、六分、たんぼ道を歩くと、大きな山門につく。「関南第一禅林」という大きな額が目につく。まだ暮れきるには少し時間があって、鬱蒼たる林の中に、お寺全体が夕暮れの中に浮かび上がっているようで、そのなかで、あぶら蝉が一大交響楽をかなでていた。裏の方へ廻って、声をかけると、老師がでてきて、「よくきた、上がりなさい」といって奥へ招じてくれる。先年、この老師はガンで亡くなられたが、飄々とした禅僧で、剣道五段、酒を愛し、書をよくした。古川華陵というこの老師はまことに達人であった。尺八がさかんになると、興国寺は尺八の本山ということになり、普化宗托鉢の鑑札をdした。明治になって普化宗そのものが解散になると、そのようなことも自然にすたれてしまったし、いまでは、街に虚無僧の姿も、あまりみかけなくなった。私どもは新しい法燈派尺八を確立しようということで、古川老師及び尺八の師匠を中心として、法燈教会を発足した。西徒町の私の家では「法燈教会清規」という規則づくりに汗を流し夜を徹した。その第二条、本会の趣旨に曰く、「本会は遠くは法燈国師の高徳をしのび。禅的尺八道の研修、ならびに、これが普及発展に最善を致し、あわせて、吹簫律調の妙韻により世道人心を和適し、酒井の風僑浄化をはかり、以て平和日本に貢献せんことを期す」とある。いまから思うと、いかにも大げさで、大上段にふりかぶったさまは、いささか恥ずかしが、昭和二十四年。敗戦後のかわいた風潮のなかで清流を感じ、このような仕事に生きがいを感じた。すすめられて風呂に入る。寺内の一隅に、風呂堂があって、なかへ入ると大きな五右衛門風呂があり、まわりにはいくつかの木彫りの観音像がある。香の匂いがかすかに流れてくるなかで、広い五右衛門風呂の釜に身をしずめると、ひぐらしの音が、ひときわ大きく、また、こころよく耳にひびく。あとは老師とさしで、酒を飲み、ざる碁をたたかわし、むつかしい法話はぬきにして世間話に時を忘れた。朝、午前四時、廊下を歩く足音に目をさまし、あわててシャツ一枚で、そのまま老師のあとを追う。これから朝の勤行がはじまるのである。妙心さんという尼さんがいたが、その尼さんと、太一ちゃんという小坊主があとにつづく。朝の勤行は、開山堂で行われる。よくはみえないが、いちばん高いところに法燈国師の木像があり、そのまわりに、五百羅漢さながらに、多くの仏像がならんでいる。ガーンという太一ちゃんが打ちならす鐘の音を合図に、ひときわ高い調子の老師の読経がはじまる。少しづつ夜明けが入りこんでくるなかを、素晴らしく迫力のある読経が堂内にひびき渡る。お経というとなんとなく陰気なイメージがわくが、ここばかりは読経の雰囲気は、まるで違い、爽快そのものといおうか、ねむけもいっぺんにとんでしまう。妙心尼と太一坊主は、老師のあとにつづく。開山堂の建物の構造かもしれないが、調子の高い老師の読経は全山にこだまして、数十の坊さんが力いっぱい、これに唱和しているかのような錯覚を、覚えるのである。長く余韻を残して読経が終わる。しーんとして静けさが、しばらくあたりを
つつむ。そこで私は用意してきた尺八、八寸管を口にあて、思いきって「ツレー」を吹く込む。尺八明暗流の本曲に「虚空」という曲があるが、その曲の最初の「ツレー」を思いきって吹き込むことで、曲の調子が出るのである。この吹き込みがなかなかむつかしく、なんべんやっても、「それじゃ駄目だ!まるで笛の音ざないか!」とよく叱られたものだ。尺アh地の本曲は一種の「声明ーしょうみょう」であって、読経の変形である。その感じはまさに、興国寺の朝の勤行そのままで、吹き込んだ「ツレー」はそのまま、なんのてらいもなく、なんの技巧もなく、息のつづくかぎり、ただひたすらに竹の音そのものを吹き抜くのである。いまから七百年前に法燈国師が尺アh地を伝来したが、その法弟、虚竹禅師が伊勢の虚空蔵堂に参籠した際、尺八の始祖、普化禅師の霊夢により作曲したのが、秘曲「虚空」であるという。私は夢中になって「虚空」の一曲を吹き終わる。終わると太一ちゃんは再び、ひときわ力強くガーンと鐘を打ちならすのである。老師はこれを合図につと立ち上がると、そのまま黙ってヒタヒタと草履の音をたてて行ってしまう。妙心尼も太一坊主も小走りにあとをついて行く。それで朝の勤行は終わるのである。私は、そのまま、再び森閑とした広い開山堂になかで、ついさっき堂内にひびきわたった壮大な声明を心のなかで、もういちどかみしめる。知らぬ間に、すっかり明るい朝がきて、さわやかな冷気が流れてくる。私は部屋にもどると、もういちど、ふとんのなかに、もぐりこんでしまうのである。「金風吹玉笛即箇是知御」という尺八に関する句があるが、禅堂の朝、まさに金風が流れ来たり、竹韻は堂内にひびく。夏を過ごす贅沢三昧と思うがどうであろうか。(以上)
 

伊東克郎(笛斉)氏の思いで(2016.3.17)(その3)

上段の写真は向かって左側が伊東笛斉氏で前島竹堂氏と昭和63年11月27日、八王子市の住泉寺において献奏されている時のもの。
下段の写真は、平成5年1月23日、明暗蒼龍会総会に客員で出席された時。
左から3人目が伊東笛斉氏で、右側の藤田正治氏と熱談中。 
大阪府吹田市の前島竹堂(義樹)氏から、伊東笛斉氏のことを聞きましたが、伊東笛斉氏は戦前、東京で勤務しているときに、錦風流二代宗家・永野旭影師にも入門されて、錦風流本曲を学ばれたとのことです。 
伊東笛斉氏と前島竹堂氏(クリックで画像を拡大)
熱談中の伊東笛斉氏と藤田正治氏(クリックで画像を拡大)